出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…張陵の孫の張魯がその教法を大成し,司教や司祭にあたる治頭や祭酒などの教団組織を固めて独立の宗教王国を樹立したが,215年(建安20),曹操の軍門に下った。しかし,その教団は天師道の名で継続し,いわゆる道教の重要な柱となって発展する。その教えによれば,病気は犯した罪によるのであるから,病気を治すには,祭酒の指導のもとに静室で天・地・水の神々に罪をざんげ告白し,再び罪を犯さないとの誓約文を書く。…
…しかし漢代の神仙説はまだ一個の宗教としての体裁を備えていなかったが,後漢末に三張の徒を中心とする新興宗教の結社が生まれ,大規模な反乱を起こした。これを五斗米道(ごとべいどう)または天師道とよぶが,これを契機として道教の原型が成立し,民衆を中心として大きな勢力をもつようになった。六朝に入ると道教は宗教としての形を整えるようになり,知識人の一部にも信者を獲得するにいたった。…
…張魯の政権が215年(建安20)に崩壊したのち,その教団は幾多の変容を経ながらも持続し,やがて張陵の後裔といわれる人物を代々〈天師〉に立てて,教団の中心とする伝統が定着した。これが道教の中で天師道または正一(しよういつ)教とよばれる教団で,元代のころから江西省竜虎山に本拠を置いて江南道教の中心となり,第2次世界大戦後は第63代の天師,張恩溥(ちようおんふ)が台湾に亡命して伝統を伝えた。【川勝 義雄】。…
…その政権は,祖父の張陵から父の張衡(ちようこう)を経て伝えられた五斗米道の教法を整備し,その信仰を精神的紐帯にするとともに,教団組織をそのまま行政に活用した一種の宗教王国で,30年近く独立を保ったが,215年(建安20),曹操の軍門に下り,張魯らは曹操の根拠地である鄴(ぎよう)(河北省南端)に移されて,この宗教王国は崩壊した。しかし張魯一族は賓客待遇を受けて侯爵の位を授けられ,布教に制限を受けなかったので,この地方に流布していた太平道の教法と混淆しつつ,道教の有力な一派としての天師道(正一(しよういつ)教ともいう)が形成されていった。【川勝 義雄】。…
※「天師道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加