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五斗米道 ごとべいどうWu-dou-mi-dao

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

五斗米道
ごとべいどう
Wu-dou-mi-dao

中国,後漢末 (2世紀後半) に,蜀 (四川省) で張陵創始した宗教,またはその教団太平道とならんで道教の源流とされ,原始道教と呼ばれることもある。信徒が五斗の米を奉納したのでこの名がある。米賊とか天師道とも呼ばれたが,みずからは正一盟威之道と称していたらしい。五斗米道の教法の中心は,治病の法である。病気は神が罪過の罰として下した結果とみなし,その許しを請うためには,病人の姓名と罪に服する意志のあることを書いた文書 (「三官手書」) を天,地,水の三神官に捧げさせた。この教団は,信仰の深浅に従って,鬼卒-鬼吏-姦令-祭酒-大祭酒 (治頭) と昇進する組織をもち,教祖は師君あるいは天師と称した。信徒は『老子』五千文を暗誦させられた。また,「義舎」という無料宿泊所を駅のように各地に設け,そのなかに米,肉などの食料を入れ,貧しい旅行者の便に供した。もしも不正にそれを取れば,罰を受けて病気になると信じられた。教区を「治」と呼び,24治あったと伝える。以上の教法や組織が,仏教の影響のもとに成立したのか,また同時代の張角の太平道と交渉があったか否かについては未詳。張陵の跡は,その子の衡,孫の魯のいわゆる「三張」が継ぎ,その後は,中原や江南の地にも広まり,書家の王羲之の家が代々五斗米道の信者であったことは有名である。5世紀,北魏の寇謙之は,若い頃張魯の術を修めていたが,五斗米道の教法を整理し,神仙思想と仏教を取入れて,新天師道を設立した。ここに,仏儒二教に対して,道教が宗教として成立したことになる。張天師の家系は続いており,台湾で中国道教会を率いている。第 64代張天師の名は源先。

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デジタル大辞泉の解説

ごとべい‐どう〔‐ダウ〕【五斗米道】

中国、後漢末に起こった初期道教宗教結社。2世紀後半、張陵老子から呪法を授かったと称して創始。自ら天師と称し、祈祷(きとう)によって病気を治し、謝礼として米5斗を納めさせた。孫の張魯(ちょうろ)に至って教説大成、組織が確立し、一大宗教王国を築いたが、魏の曹操征伐を受けて弱体化した。天師道。

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百科事典マイペディアの解説

五斗米道【ごとべいどう】

中国,後漢末張陵が創唱したといわれる宗教とその教団。天師道,米賊とも。道教の前身。民間信仰を基礎に禁戒を設け,祈祷(きとう)により療病し,謝礼に米5斗を奉納させた。
→関連項目神仙説太平道

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世界大百科事典 第2版の解説

ごとべいどう【五斗米道 Wǔ dŏu mǐ dào】

2世紀末から3世紀はじめに中国の四川省から陝西省南部に広まった宗教。創始者といわれる張陵が信者に米5斗を出させたので,この名が生まれたというが,彼ら自身では新出正一明(盟)威之道と称したらしい。張陵の孫の張魯がその教法を大成し,司教や司祭にあたる治頭や祭酒などの教団組織を固めて独立の宗教王国を樹立したが,215年(建安20),曹操の軍門に下った。しかし,その教団は天師道の名で継続し,いわゆる道教の重要な柱となって発展する。

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大辞林 第三版の解説

ごとべいどう【五斗米道】

中国、後漢末、張陵ちようりようが蜀しよく(四川省)で創始した宗教。また、その教団。祈禱きとうによる治病を主とし、入門の謝礼に米五斗を出させた。孫の張魯ちようろの時、一種の宗教王国を形成したが、215年曹操に降服した。その子孫は江西に移り代々張天師と称した。のちに道教の正一教しよういつきようとなる。太平道とともに道教の源流をなす。天師てんし道。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

五斗米道
ごとべいどう

中国、後漢(ごかん)末2世紀中ごろに四川(しせん)省蜀(しょく)におこった道教教団の天師道(てんしどう)の別名。現在では、この教団が魏(ぎ)の曹操(そうそう)によって公認された215年以前を五斗米道、以後を天師道(元(げん)以降は「正一(せいいつ)教」)とよぶ場合が多い。信者が五斗の米を納めたことからこの名があるが、五斗米という数は漢代の県令の五斗禄(ろく)に由来する。開祖は張陵(ちょうりょう)とされるが、実際には孫の張魯(ちょうろ)の代になって教団の組織は確立した。一般の信者は鬼卒(きそつ)とよばれ、24の「治」に分けて支配された。各治の支配には祭酒(さいしゅ)があたり、祭酒はまた、義舎(ぎしゃ)という一種の無料給食所を設け、米や肉を旅人に与えた。宗教活動の中心は治病であり、病気は過去の罪過の結果であるとされた。そこで祭酒は、病人を「静室」に入れて罪過を告白させ、病人の名と罪過を書いた紙片を天・地・水の神々(天官・地官・水官)に捧(ささ)げ、あるいは『老子道徳経』を唱えさせるなどして治病した。張魯かまたはその後継者の作とされる『老子想爾注(そうじちゅう)』は、『老子道徳経』を宗教的・倫理的に解釈した注釈であって、そこにはまた、老子を太上老君(たいじょうろうくん)として神格化し祀(まつ)った記録もみえる。五斗米道の特徴は、中国人の抱く理想郷の理念と共通している。したがって、それが天師道となって中国全土に広がると、農民の反乱に力を与えたり、上流貴族の間にも救世主出現を待望する夢を与えたりしたようである。しかし、この五斗米道が四川省内に実現したような神権政治的独立国家は、その後、二度と中国には現れなかった。[アンナ・ザイデル]

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世界大百科事典内の五斗米道の言及

【漢】より

…たまたまその年の秋に張角が病死し,有能な指導者を失ったために黄巾の主力軍は敗れたが,地方の黄巾軍や,また黄巾軍に呼応して立った各地の農民軍はなお健在であった。なかでも大きな勢力を誇ったのは河北の黒山軍と陝西から四川にかけての五斗米道(ごとべいどう)の軍で,これらの蜂起軍を鎮圧するためにはさらに20年の歳月を費さねばならなかった。 黄巾の主力軍が平定されると,外戚と宦官による相も変わらぬ権力争いが再開されたが,189年に外戚何進らによる宦官誅滅計画がもれて何進が宦官に殺されると,禁軍の将袁紹は2000余人の宦官をことごとく殺すという荒療治で宦官を一掃した。…

【張陵】より

…中国,道教教団の源流の一つとなった五斗米道(ごとべいどう)の開祖。張道陵ともよばれる。…

【張魯】より

…中国,五斗米道(ごとべいどう)の大成者。後漢末期,益州(四川省)長官の下で部隊長になり,漢中(陝西省南部)攻略に成功してここに独立した。…

※「五斗米道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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