張魯(読み)ちょうろ(英語表記)Zhāng Lǔ

改訂新版 世界大百科事典 「張魯」の意味・わかりやすい解説

張魯 (ちょうろ)
Zhāng Lǔ
生没年:?-216

中国,五斗米道(ごとべいどう)の大成者。後漢末期,益州四川省長官の下で部隊長になり,漢中(陝西省南部)攻略に成功してここに独立した。その政権は,祖父張陵から父の張衡(ちようこう)を経て伝えられた五斗米道の教法を整備し,その信仰を精神的紐帯にするとともに,教団組織をそのまま行政に活用した一種の宗教王国で,30年近く独立を保ったが,215年(建安20),曹操の軍門に下り,張魯らは曹操の根拠地である鄴(ぎよう)(河北省南端)に移されて,この宗教王国は崩壊した。しかし張魯一族は賓客待遇を受けて侯爵の位を授けられ,布教に制限を受けなかったので,この地方に流布していた太平道の教法と混淆しつつ,道教の有力な一派としての天師道(正一(しよういつ)教ともいう)が形成されていった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「張魯」の意味・わかりやすい解説

張魯
ちょうろ

生没年不詳。中国、2世紀末の道士。道教の始まりである五斗米道(ごとべいどう)(または天師道)を始めた張陵(ちょうりょう)(天師とよぶ)の孫。父の張衡(ちょうこう)が嗣師(しし)、張魯は系師(けいし)(または係師)とよばれた。字(あざな)は公祺(こうき)。祖父、父を継いで、五斗米道の教えと組織とを確立し、魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)という三国鼎立(ていりつ)の戦乱時代に、陝西(せんせい)省から四川(しせん)省にかけて、一大宗教集団を約30年間指導した。215年(建安20)魏の曹操(そうそう)の下に入った。

[福井文雅 2018年5月21日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張魯」の意味・わかりやすい解説

張魯
ちょうろ
Zhang Lu

中国の後漢に興った五斗米 (ごとべい) 道の大成者。張陵の孫。字は公祺 (き) 。沛 (江蘇省) の人。後世に係師と呼ばれる。五斗米道 (天師道) は後漢末の混乱期に数多くの信者を得たが,張魯はこれを巧みに組織化した。益州 (四川省) 牧の劉焉 (りゅうえん) は彼を督義司馬に任じ,その独立を認めた。こうして漢中 (陝西省) 地方には,2世紀の末に五斗米道を紐帯とする宗教王国がつくられることになった。建安 20 (215) 年,曹操が漢中を攻めると張魯はこれにくだりろう中侯に封じられた。張魯によって組織づけられた五斗米道はやがて江西に移り,道教へと発展した。

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世界大百科事典(旧版)内の張魯の言及

【鬼道】より

…一方,巫覡(ぶげき)などの行う呪術および国家非公認の呪術的宗教などもまた鬼道といわれる。後漢末から三国魏の時代にかけて,四川,陝西両省にまたがる一大宗教王国を築いた五斗米道教団の第3代教主である張魯は,主として符(おふだ)や呪水といった呪術的方法を用いて病人の治療を行い,その勢力を拡大していったが,当時の史書は張魯の教法を鬼道と決めつけている。また《魏志倭人伝》には,女王卑弥呼が〈鬼道に事(つか)え,人心を惑わし〉ていたことが記されている。…

【五斗米道】より

…創始者といわれる張陵が信者に米5斗を出させたので,この名が生まれたというが,彼ら自身では新出正一明(盟)威之道と称したらしい。張陵の孫の張魯がその教法を大成し,司教や司祭にあたる治頭や祭酒などの教団組織を固めて独立の宗教王国を樹立したが,215年(建安20),曹操の軍門に下った。しかし,その教団は天師道の名で継続し,いわゆる道教の重要な柱となって発展する。…

※「張魯」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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