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道教とは何か--この問題に対しては研究者のあいだで見解がまだ一致していない。ここでは以下に述べる2点から検討考察を加える。その第1点は,中国の思想史とくに古代,中世の思想史において,一般的に〈道教〉という言葉が実際にどのような思想概念として用いられてきているか,また,それは中国土着の民族宗教としての〈道教〉の概念とどのようなかかわりを持っているかであり,第2点は,中国において民族宗教としての道教が,その神学教理もしくは思想哲学を一応整備完成するにいたる唐・五代・宋初の時期において,道教の教団内部の学者たちがその教をどのような宗教として自覚し,規定し,ないしは神学教理の整備体系化を行っているかである。
中国の思想史において,〈道教〉という言葉(概念)が最も古く用いられているのは,前4世紀ころにその成立が推定される《墨子》の〈非儒篇〉およびこれより少しおくれて前3世紀ころにその成立が推定される〈耕柱篇〉においてである。〈非儒篇〉では〈儒者〉すなわち当時の孔子学派の学者たちが,みずからの教を〈道教〉とよんでいるのは正しくないと批判し,〈耕柱篇〉では墨子の教説こそ真正の〈先王の道教〉であることを強調している。ここでいわゆる〈道教〉とは,〈先王〉すなわち中国の最古代,夏・殷・周3代の王朝の聖王たちが実践した政治教化の軌跡もしくは規範を意味するが,注目されるのは,〈儒者〉がその軌跡もしくは規範をすでに早く〈道教〉とよんでいたこと,さらにこの〈儒者〉のいわゆる〈道教〉(〈先王の道〉の教)を墨子教団の学者たちが似て非なるものと批判しつつ,みずからの教説を真正の〈道教〉であると強調していることである。つまり中国の思想史において道教という言葉(概念)を最初に用いているのは,〈儒者〉すなわち儒家の学者たちであり,次いでそれを批判是正する形で墨家すなわち墨子教団の学者たちがそれを用いていることである。そして,墨家のいわゆる真正の〈先王の道教〉とは,要するに夏王朝の禹王以来とされる上帝鬼神への敬虔な宗教的信仰,および祭祀祈禱その他の宗教儀礼の誠実な実践をその根幹とするものであり,儒家のいわゆる〈道教〉が似て非なるものときびしく批判されるのも,この宗教的な根幹を軽視もしくは無視していると見られたからであった。
中国先秦時代の儒者が彼らの奉ずる〈先王の道〉の教を〈道教〉とよんでいたという《墨子》の記述は,後の漢・魏の時代においても儒教を〈道教〉とよんでいる事例の幾つか見えていること,たとえば《尚書》湯誥篇の孔安国伝〈道教を安立す〉,《三国志》呉書の陸遜伝〈道教を煕(ひろ)め隆(さか)んにす〉など,からも裏づけられるが,儒家の自称する〈道教〉を似て非なるものときびしく批判する《墨子》と同じく彼らの道教を邪偽であると激しく攻撃しているのは,魏・晋の時代に成立して張魯の天師道教団の幹部教育用の講義録であろうと推定されている《老子想爾(そうじ)注》である。〈真道蔵(かく)れて邪文出(い)ず。世間の常の偽伎は道教と称するも皆な大偽にして用うべからずと為す。……其の五経は半ば邪に入り……悉(ことごと)く邪なるのみ〉というのがその批判であるが,ここでは儒家もしくは儒教で自称する〈道教〉が,墨子教団ないしは天師道教団の上帝鬼神もしくは天神の信仰の宗教的立場から否定的に批判されていて,真正の〈先王の道教〉もしくは〈真道〉の教としての〈道教〉が,それに代わるべきものとして強調されていることが注目される。そして,このような宗教的立場からその真理性が強調されている〈道教〉の思想概念を同じく宗教的立場から自己の宗教をよぶ言葉として採り入れているのは,紀元前後にインドから中国に伝来してきた仏教であった。
インド伝来の仏教が中国において自己の教を〈道教〉とよぶにいたるのは,仏教の哲学の根本概念であるサンスクリット語のbodhi(菩提)が老荘道家の哲学の根本概念である〈道〉を用いて漢訳されることなどから,〈菩提の教〉が〈道の教〉すなわち〈道教〉とよばれるようになるわけであるが,三国魏の時代に漢訳されて訳文中に4ヵ所も〈道教〉の語が無量寿仏の教すなわち仏教を意味して使用されている《仏説無量寿経》の場合には,訳文中の〈彼の仏国土は無為自然,天下和順にして日月は清明なり〉〈是(か)くの如きの衆悪は天神これを記識す……天道は自然〉〈積善の余慶は今にして人と為るを得〉などの字句表現が端的に示しているように,そのいわゆる〈仏の宣(の)べ布(ひろ)めて諸もろの疑網を断つ道教〉〈普(あま)ねく群萌(もろびと)をして真法の利を獲しむる道教〉は,《墨子》のいわゆる真正の〈先王の道教〉,《老子想爾注》のいわゆる〈真道〉の教としての道教とまったく共通の思想史的基盤に立つものと見てよい。そして,このことは《仏説無量寿経》の場合ほど極端ではないにしても,この時期の漢訳仏典に訳語として用いられている〈道教〉の言葉(概念),たとえば姚秦(後秦)の竺仏念訳《菩薩瑶珞(ようらく)経》の〈心意に因らずして道教を発するを得たり〉,同じく僧肇(そうじよう)の《注維摩詰(ゆいまきつ)経》の〈光を塵俗に和らげ,因りて道教を通ず〉などに関しても同じように指摘することができる。
漢訳仏典ないしは中国仏教が,みずからの宗教をよぶ言葉として用いている〈道教〉の語は,インド仏教の中国的土着化もしくは体質改善の努力と成果とを典型的に象徴しているとともに,中国古来の伝統的な宗教思想信仰に対して,抵抗なく仏教のすべてを受容しうる素地を整備する地ならし機の役割をも果たしてきている。六朝後半期における最高の道教教理学者である陶弘景が,最もすぐれた宗教哲学書として《荘子》内編などとともに漢訳《妙法蓮華経》を挙げ(《真誥叙録》),それよりも半世紀後に北朝(北周)で成立した現存最古の道教教理百科全書《無上秘要》100巻(原欠32巻)に収載する多数の道教経典のうち,経文中にたとえば〈三界〉〈三世〉〈三業〉〈宿命〉〈輪廻〉〈浄土〉〈解脱〉などの仏教漢語をまったく使用していないものは,ほとんど皆無であるといってもよい状況を呈し,ついには《業報因縁経》《本行因縁経》《金光明経》《三元無量寿経》《太上中道妙法蓮華経》などのごとき,経典の名称からして仏教経典と識別困難な多数の道教経典を造出するまでにたちいたるのも,中国仏教が聖人(仏陀)の〈道の教〉として理解され,〈道教〉ともよばれていたことの必然的な帰結であったと見てよい。
漢民族の宗教としてのいわゆる道教が,みずからの教えを道教として意識し,対外的にも道教とよぶようになるのは,もちろん中国仏教のそれよりもはるかにおくれており,4世紀の初め,西晋末期に成立した道教の基礎理論書《抱朴子》の中においてもまだ〈道教〉という2字の成語は用いられていない。この言葉が道教の神学教理と密接に関連して確実な文献の上に見えてくるのは,北魏の歴史を記録した正史《魏書》においてであり,その〈釈老志〉に載せる5世紀の初め,北魏の明元帝の神瑞2年(415),嵩山(すうざん)の山頂に降臨したという道教の大神,太上老君の道士寇謙之(こうけんし)に告げた神勅の中においてである。〈吾れ(太上老君)故に来りて汝を観,汝に天師の位を授け,汝に雲中音誦新科の誡二十巻を賜う……汝は吾が新科を宣(の)べて道教を清め整え,三張の偽法の租米銭税および男女合気の術を除去せよ。大道は清虚にして豈に斯の事有らんや……〉というのが,その神勅の主文であるが,ここでは〈道教〉の語が明確に太上老君を大神とする中国土着の宗教をよぶ言葉として用いられており,しかもその道教は漢・魏の時代の張陵から孫の張魯に至る天師道(五斗米道(ごとべいどう))の教を清め整え,革新する宗教として強調されている。
《魏書》釈老志に載せる太上老君の神勅の中に見える〈道教〉の語は,たしかに後漢の天師道以来の中国伝統の宗教を呼ぶ言葉であったが,この道教をさらにインド成立の外来宗教である仏教と対立させて,外来すなわち〈夷〉の宗教に対する中国固有,すなわち〈夏(か)〉(中華)の宗教の独自性を強調しているのは,南朝(南斉)の道士顧歓(420-483?)の書いた《夷夏論》である。《夷夏論》の書かれたのは,顧歓の論争相手である袁粲(えんさん)の死没が劉宋の末期,順帝の昇明2年(477)であるから,それ以前ということになるが,ここではそれまでインド伝来の仏教をよぶ言葉でもありえた道教の語が,もっぱら中国固有の伝統的な宗教をよぶ言葉として確定され,しかもこの道教を仏教とまっこうから対立させつつ,〈夏〉の宗教である道教の〈夷〉の宗教である仏教に対する優越性がさまざまな論点から強調されている。
インド伝来の仏教に対して中国固有の宗教を意味する道教の語が,中国の思想史においてその用法を確定し定着させるのは,上述のように5世紀の半ばころ,南朝においては劉宋の時代,北朝においては北魏の時代であるが,その後の中国社会において仏教と競合する二大宗教としての道教が,その教理と儀礼,神学もしくは宗教哲学を一応完成させ,経典論書のたぐいを整備し,教団組織を拡充して,いわゆる唐代道教の黄金時代を迎え,皇帝貴戚以下,官僚政治家,学者知識人,一般民衆に及ぶ広範な層の信奉者,護持者を獲得するにいたることは,この時期の一般歴史書,思想,文学,芸術などの諸文献が具体的に記載しているとおりである。そして11世紀の初め,熱烈な道教の信奉者であった北宋の皇帝真宗の勅撰に成る《雲笈七籤(うんきゆうしちせん)》120巻(実際の編纂責任者は道士の張君房。なお現行の道蔵本《雲笈七籤》は122巻となっているが,これは内容に乱れを生じたための誤り)こそ,このようにして黄金時代を迎えた宗教としての道教のすべてを,その神学教理もしくは思想哲学を主軸として整理し体系化したものであった。この書は中国土着の民族宗教としての道教が,その全盛時代にみずからをどのような宗教として理解し,自覚し,解釈し,規定しているかを最も如実に示すもの,換言すれば,道教とは何かの問いに対して最もまとまった形で,最も適切に答えている第一義的な文献資料と見ることができよう。
《雲笈七籤》の内容的な特徴は,まず道教とは何たるかを主としてその経典類とくに神学教理書に依拠して明らかにしていこうとする点にある。仏教の何たるかを仏典によって,もしくはキリスト教の何たるかを聖書によって明らかにしようとする立場と共通する。全120巻の冒頭第1巻に道教の宗教哲学の根本概念である〈道(タオ)〉とは何かを考えるための基礎文献資料を列挙し,ついで第2巻以下に道教の神学教理の基本的な概念,各種経典の成立の歴史とそれの整理分類の原則,歴代の天師すなわち教団の最高指導者たちの伝記などに関する解説資料を整然と配列し,第6巻から第20巻までに代表的な道教の神学教理書約60種の解題もしくは本文を収載しているのが,何よりも良くその立場を示すであろう。その第21巻から終りの第120巻に至る100巻の内容は,6世紀に北周で編纂された上記の道教教理百科全書《無上秘要》100巻のそれとあらまし対応し,引用経典も古い時代のものは《無上秘要》のそれをほとんどそのまま引き継いでいるが,《無上秘要》の編纂が儀礼・儀式に重点を置いて金丹部門に粗略であるのに対し,《雲笈七籤》のそれは《周易参同契(しゆうえきさんどうかい)》や《抱朴子》内編などを基底におく金丹部門にも力を注ぎ,全般的に道教の神学教理ないし思想哲学に関心の重点を置いている。
この《雲笈七籤》120巻の記述内容によって道教とは何かの問題を検討考察するとき,第1に注目されることは,漢訳仏典もしくは中国仏教の用語,いわゆる仏教漢語が各所に多く用いられていること,また仏教漢語を根底において支える仏教的な思想哲学もしくは思考方法などが少なからず持ちこまれてきていることである。そのことがとくに目立つのは道教の神学教理をまとめて解説している巻八十七から巻九十五に至る〈諸真要略〉ないし〈仙籍語論要記〉の部門であるが,ここでは六朝時代の前半期,みずからを道教ともよぶことのあった漢訳の中国仏教が,道教ともよばれることのある同類性の故にそれほどの抵抗感も違和感もなく,中国固有の宗教であることを強調する道教の中に全面的に取り込まれるにいたっている。かつて仏教を〈夷〉の宗教として非難攻撃した南斉の顧歓の《夷夏論》などのような排外的態度は,ここではまったく影をひそめており,仏教は漢訳されれば,もはや中国人の宗教ではないかとされて,中国伝統の宗教を代表する道教の中に完全に組みこまれた形となっている。《雲笈七籤》における道教は漢訳の中国仏教を今や再び道教として理解し,中国人の宗教として受け容れているといっても過言ではない。
第2に注目されることは,漢代以後の儒家の学問ないしは儒教思想のうち,とくに《易》と《春秋》の儒学,天神地祇人鬼の祭祀を中心とする《儀礼(ぎらい)》《周礼(しゆらい)》《礼記(らいき)》のいわゆる三礼(さんらい)の学,また天人相関の儒家哲学(天人相関説),それと密接に関連する上帝鬼神ないしは災異祥瑞の思想信仰など(災異思想)が,《雲笈七籤》の記述する道教の神学教理もしくは思想哲学の根幹部分に重要な位置を占めて豊富に導入されていることである。このうち天神地祇人鬼の祭祀,天人相関,災異祥瑞の思想信仰などは《墨子》の〈明鬼〉ないし〈天志〉の宗教哲学とも密接な関連をもち,むしろ漢代の儒家儒学が天人感応学説,皇帝権力の神聖性の弁証の問題などとも関連して,《墨子》の上帝鬼神の宗教哲学を全面的に取り入れたものと見なされるが,そのことはしばらくおき,神学教理の基礎理論としては《易》もしくは《易緯》の哲学を導入しているものが最も多く,巻九十三に載せる〈陰陽五行論〉を始めとして陰陽の文字を含む字句表現が全体で200回近くも見えていること,また〈太一君に八使者有り,八卦(はつか)神なり〉(巻十八),〈八卦大神は下,人間に遊ぶ〉(巻十八)など〈八卦〉の語が数十回にわたって用いられており,さらに〈九宮真人〉(巻五十),〈九宮中に九神有り〉(巻三十)など,《易緯》に基づく〈九宮〉の語が約60回にわたって用いられていることなどが,このことを最もよく示す。また祭祀,祝禱,誓盟などの宗教儀礼に関しては,三礼のうち《礼記》《周礼》をふまえた記述が各所に見られ,〈礼記に云う,骨肉は化して土と為り,魂気は天に帰る〉(巻八十六),〈皇天上帝は北辰の中央星,是れなり〉(巻十八)などの記述とともに《礼記》月令篇によって道教の諸種の養生術を月ごとに整理した《摂生月令》(巻三十六)や,《周礼》の天神地祇の祭祀儀礼をふまえた道教の〈朝礼〉(巻四十一),〈朝真儀〉(巻四十五)などの宗教儀礼が注目される。
儒家もしくは儒教の〈先王の道教〉は,上述のように先秦時代の墨子教団によって〈天下の人を賊するもの〉などと厳しく批判され,また漢・魏の時代の天師道教団によって〈邪であり偽である〉などと激しく非難攻撃されているが,11世紀,北宋初期の《雲笈七籤》においては,前記道教としての仏教と同じく,その教が聖教であり聖道であるとして積極的に肯定され,宗教としての道教の神学教理の根幹部分に大きく導入されるにいたっている。そして,この事実は《雲笈七籤》において初めて見られるものではなく,それをさかのぼること約450年,6世紀,北周時代に成立した上記の《無上秘要》においても同じく確認され,さらに半世紀をさかのぼる梁の時代に成立した陶弘景編著の《真誥(しんこう)》においても同様である。儒家もしくは儒教の〈先王の道教〉は,いわゆる宗教としての道教の神学教理が本格的に整備され始める3世紀,西晋の末期,葛洪の《抱朴子》のころからすでに儒道折中の形で大きく導入されてきているとみてよいであろう。ちなみに儒家の《易》の哲学が道家の《老子》の哲学と折中されるにいたるのは,仏教が中国に伝来する以前の秦・漢の時代からである。
第3に注目されるのは,中国の古代思想史で儒家の道教を批判しつつ,みずからの道教の正統性を強調している墨子ないしは墨子教団がいわゆる宗教としての道教の道術の実践者として,《雲笈七籤》の収載する六朝期の道教の神学教理書の中に記載されていることである。たとえば〈金丹を服して終りを告ぐる者〉(巻八十四に引く《真誥》の文章)として墨翟子(ぼくてきし)の名が挙げられているのがそれであり,服気すなわち呼吸調整の道術として〈墨子閉気行気法〉(巻五十九)が,また道士の周義山(巻百六にその伝記〈紫陽真人・周君内伝〉を載せる)が鳥鼠山に登って墨翟子から《紫度炎光内視図中経》を授けられたなどと記載されているのがそれである。墨子ないしは墨子教団が六朝期の道教の神学教理書の中で宗教としての道教と結びつけられるのは,彼らが中国古代の伝説的な皇帝,夏王朝の禹王を,山河を跋渉して困苦し,治水工事を成功させて天下万民の苦しみを救った大聖として尊び,その禹王がまた六朝期に成立した道教の経典《霊宝五符序》の中で〈真人から長生の道を口訣(くけつ)され……天宮の宝書を集め……霊方を服して以て景(かげ)を匿した〉神仙とされていることと密接な関連をもつが,六朝以後のいわゆる宗教としての道教が同じく道教とよばれた名辞の共通性の故に墨子ないしは墨子教団の〈先王の道教〉を神仙的に道術化して,その神学教理の中に組み込んでいる点は,量的にはかなり劣るとはいえ道教としての仏教もしくは道教としての儒教と一致する。
第4に注目されるのは,この墨子ないしは墨子教団と同じく儒家の先王の道教を批判して〈世間の常の偽伎は道教と称するも皆,大偽にして用うべからずと為す〉などといっている漢・魏の天師道教団の〈真道〉の教としての道教が《雲笈七籤》における道教の全体的な基盤もしくは底辺部を形成していることである。すなわち,この真道の教としての道教は,《老子想爾注》に〈一とは道なり……一は形を散じて気と為り,形を聚(あつ)めて太上老君と為る。今,道誡を布(し)いて人を教う〉とあるように,太上老君の道誡すなわち神格化された哲人老子の道教的な教誡が,その中心をなしているが,この太上老君の道誡がその中心をなしている道教経典は,《道教宗源》の〈凡例〉(《道蔵》正一部収載)にも〈洞神部は則ち十方の道師たる太上老君の出す所なり〉というように,〈三洞〉すなわち洞神,洞玄,洞真のうち,洞神部の経典群であり,道教経典の中では成立の時期が最も早く,したがってまた道教の神学教理全体の中でも基底的な,もしくは底辺部的な位置を占める。
以上を要するに《雲笈七籤》における道教は,古く道教ともよばれることのあった儒教や中国仏教,また道教としてのみずからを積極的に主張した墨子教団や天師道教団の教をそれぞれその内部に組み込んでおり,儒教や中国仏教を,かつての墨子教団や天師道教団もしくは南斉の顧歓《夷夏論》などのように対立的にとらえ,攻撃批判し排除する立場を取っていない。《雲笈七籤》における道教とは,中国の古代中世思想史において,みずからを道教とよび,ないしは道教ともよばれたことのあるすべての宗教的思想信仰ないし呪術道術を天師道を基底として整理総合し,その後の教理・儀礼的展開をも幅広く包括して集大成したものと結論することができよう。
《雲笈七籤》は漢・魏の時代から唐・五代・宋初にわたって,以上のごとく集大成されて成立した道教の文献のすべてを三洞三十六部,四輔に分類している。この分類は唐代前半期の道教教理書《道門経法相承次序》や《道教義枢》などの記述をそのまま継承するものであり,このうち三洞のみの分類は,さらに古く5世紀,劉宋の道士陸修静のころまでは確実にさかのぼりうるであろうが,三洞とは上記のように洞真,洞玄,洞神をいう。
洞真部の道教経典は,《雲笈七籤》巻六に引く唐初に成立の《業報因縁経》に〈元始天尊は亦た天宝君とも名づけ,洞真経十二部を説く〉とあり,道教三尊,すなわち太上老君,太上道君,元始天尊,のうち出現が最も遅く,6世紀半ば以後と推定される元始天尊(〈天尊〉の語は漢訳仏典から始まる)の教誡を経典化したものであるが,この洞真部経典群の内容的な特色は,その代表的な経典《元始無量度人経》や《无上(むじよう)内秘真蔵経》などが最も良く示しているように,用語と思想とに仏教的な色彩の濃厚なことである。もちろん経典内容の基底部をなすものは,祝禱,禁呪,符醮などの天師道教団的な呪術宗教,いわゆる〈鬼道〉であり,儒教の〈神道〉の易学や祭礼の宗教哲学,また老荘道家の〈玄〉と〈真〉と〈元気〉の哲学,いわゆる〈真道〉の神学教理もまたその主要な部分を占めるが,これらの神学教理が仏教の思想哲学と結びつけられ折衷されて,しばしば聖道の教もしくは聖教,聖学とよばれているところに,この経典群の大きな特徴が見られる。
つぎに洞玄部の経典群は,漢・魏のころから曹丕(そうひ)の《典論》などに各剣宝刀をよぶ言葉として見え初める〈霊宝〉の2字を結びつけた〈洞玄霊宝〉の4字を経典名の中に含むことが多く,《雲笈七籤》では《玉緯》(唐の玄宗の開元年間(713-741)に作られた道教の経典目録)を引いて〈洞玄は是れ霊宝君の出だす所〉といい,上引の《道教宗源》の〈凡例〉では,〈洞玄部は則ち三界の医王・太上道君の出だす所〉という。太上道君というのは,哲人老子の説いた〈道(タオ)〉の根源的な真理を神格化して4世紀,東晋時代から文献に見え始める道教の最高神,いわゆる〈三尊〉の一人であるが,この太上道君の教誡が経典化されて洞玄部もしくは洞玄霊宝の経典群が成立する。そして,この部に所属する経典群は,たとえば《黄庭経》《自然九天生神経》《運度小劫経》などが代表しているように,その神学教理が《老子》と《易》ないし《易緯》の哲学思想を根幹としており,仏教の用語や思想の影響が洞真部の経典群ほど多くない。なお,6世紀,北周の道安《二教論》によれば,洞玄部の経典は,《抱朴子》の著者,西晋の葛洪の従祖にあたる葛玄(仙公)からはじまるという。その真偽はしばらく置くとして,葛氏一族が道教の洞玄霊宝の教説と密接な関連を持つことは否定できないであろう。
おわりに洞神部の経典群はすでに述べたように,哲人としての老子を神格化した太上老君の教誡を経典化したものといわれ,三洞のなかでは成立の時期が最も早い。洞神部の代表的な道教経典である《正一法文天師教戒科経》によれば,太上老君は後漢の順帝の漢安元年(142),蜀の臨邛(りんきよう)の赤石城で正一盟威の道を〈正一法文天師〉すなわち張道陵(張陵)に授けたといい,同じく《北斗本命長生妙経》によれば,太上老君はさらに後漢の桓帝の永寿元年(155),蜀郡に下降して天師の張道陵に《北斗延生妙経》を授与したという。《北斗延生妙経》は《雲笈七籤》星辰部に〈北斗延生神呪〉の記述が見えているように漢・魏・六朝時代の北斗七星の呪術信仰を主題とし,〈正一盟威の道〉とは,《雲笈七籤》巻二十八,治部の記述によれば,〈三天を統承し……鬼気を整理する〉呪術宗教的な性格の顕著な道術であった。つまり洞神部の経典群の内容的中核をなすものは,符籙(おふだ),禁呪,祝誓,祈禱などのいわゆる鬼道の教としての道教であり,中国最古代,夏・殷・周3代以来の巫覡(ふげき)の道もしくは巫術の伝統を最も忠実に継承するものといえよう。
〈三洞〉の教すなわち道教の神学教理は,2世紀の半ば,後漢の中ごろ,漢の高祖劉邦と同郷の沛国豊県(江蘇省徐州市の北西)の道術者張陵を開祖として,このような中国伝統の巫術もしくは鬼道の教から出発し,この鬼道(巫術)を根底基盤に置きながら,その上部構造として儒家の〈神〉の哲学,墨家の上帝鬼神の信仰,道家の〈玄〉と〈真〉の哲学,中国仏教の自己解脱と衆生済度の聖道の教としての道教などを取り入れ,上乗せしながら,その神学教理を重層的に集大成していくのである。したがって《雲笈七籤》において道教とは,このような洞神,洞玄,洞真の三洞の教の集合的総体を,もしくは伝統的な鬼道の教および儒家,墨家,道家,中国仏教のそれぞれの〈道の教〉の重なりの層の全体を総称する言葉にほかならない。
なお,この三洞の道教経典をそれぞれ十二部に分けて三十六部とする分類法についても《雲笈七籤》(巻六)に具体的な解説があり,その解説の文章は唐初に書かれた道士孟安排(もうあんばい)の《道教義枢》(十二部義)やそれに先行する著者未詳の《玄門大義》(〈釈名〉章)などのそれに基づく。すなわち十二部とは(1)本文,(2)神符,(3)玉訣,(4)霊図,(5)譜録,(6)戒律,(7)威儀,(8)方法,(9)衆術,(10)記伝,(11)讃頌,(12)表奏であるが,この十二部の分類法が,漢訳仏典の《大智度論》(巻三十三)などに記述する仏教の十二分教のそれを取り入れたものであることは一目瞭然である。また三洞の経典群をそれぞれに輔佐する道教文献群を太玄,太平,太清,正一の4部に分かち,これを四輔とよんで,この四輔をさらに三洞と合わせ,七部とよぶことについても,《雲笈七籤》(巻六)に同じく《道教義枢》(七部義)に基づく具体的な記述が載せられている。すなわち七部のうち四輔の太玄部は三洞の洞真部を,同じく太平部は洞玄部を,太清部は洞神部を,正一部は三洞のそれぞれを共通して輔(たす)けるというのであるが,ここでは〈四輔〉は要するに三洞に対して従属的な関係に置かれており,全般的に分類の基軸をなすものは,あくまで〈三洞〉である。つまり三洞こそすべての道教経典ないし文献群を全体として分類整理し,《道蔵》すなわち道教の一切経として組織し体系づける根本原理であるといわなければならない。そして三洞の分類は上にも述べたように単なる類別的,平面的な分類にとどまるものではなく,道教の神学教理の思想史的な展開の軌跡を重層的・立体的に示すものであった。すなわち洞神部の経典群の成立が最も早くて,その内容は中国伝統の鬼道,巫術的性格を顕著に保持しており,次いで洞玄部の経典群は洞神部のそれを基盤的には継承しながら,さらにその上部に《老子》の〈玄〉と《易》の〈神〉の哲学を導入し,もしくはその内部に墨家の道術などを組み込んで,魏・晋の時代に新しい展開を見せており,最後に洞真部の経典群は洞玄部の主軸をなす《老子》(《道徳真経》)と《易》の二玄に《荘子》(《南華真経》)を加えた三玄の学とともに中国仏教の教理哲学,思想用語を大幅に導入し,東晋時代以後,隋・唐の時代にかけて続々と造り出されている。そして,このようにして大量に造り出された三洞の経典群こそ,ほかならぬ道教の〈聖書〉であり,この聖書の総体的な記述内容によってしか道教の神学教理ないしは思想哲学の何たるかが正しく答えられないとすれば,〈三洞〉の〈神〉と〈玄〉と〈真〉の教のそれぞれの中に重層的に組み込まれている〈道の教〉としての儒家,墨家,老荘道家もしくは中国仏教の思想哲学を排除して道教の何たるかを考えることもまた困難となろう。儒家,墨家,老荘道家もしくは中国仏教は,それが先王の道の教であるにせよ,〈玄〉と〈真〉の老荘道家の道の教,菩提の道の教であるにせよ,永遠不滅の〈道(タオ)〉の根源的な真理もしくは真実在と一体になることをそれぞれ究極の理想としている点で,民族宗教としての道教と内容的に重なり合うものをもち,道の教として共通するものをもつ。
かくて,当時現存のすべての道教経典ないし文献を三洞三十六部,四輔の分類によって整理体系化する立場をとる《雲笈七籤》の内容によって,〈道教とは何か〉の問題に決着をつけようとすれば,その答えは一応次のような文章表現となるであろう。
〈道教とは中国古来の巫術もしくは鬼道の教を基盤として,その上部に墨家の上帝鬼神の思想信仰,儒家の神道と祭礼の哲学,老荘道家の〈玄〉と〈真〉の形而上学,さらには中国仏教の業報輪廻と解脱ないしは衆生済度の教理儀礼などを重層的・複合的に取り入れ,隋・唐・五代の時期に宗教教団としての組織と儀礼と神学教理とを一応完成するにいたった〈道(タオ)〉--宇宙と人生の根源的な真理もしくは真実在の世界--の不滅と一体になることを究極の理想とする漢民族(中国民族)の土着的・伝統的な宗教である〉。
結論的にいえば,以上が筆者の中国思想史における〈道教〉という言葉(概念)の用例の検討によって,また中国土着の民族宗教としての道教が,その黄金時代を輝かしく経過した北宋初期の時点で,みずからの教を一種の教理思想百科全書として整理体系化している《雲笈七籤》の具体的内容の検討考察によって得られた,〈道教とは何か〉の問いに対する一応の答えである。《雲笈七籤》の成立以後においても,もちろん道教の神学教理ないし思想哲学は,その展開をまったく停止してしまったわけではない。とくに12世紀の後半,南宋と対峙して河北に君臨した金王朝の時代には,道教における一種の宗教改革ともいうべき全真教が王重陽によって創始され,王重陽の高弟(〈七真〉)の一人,丘処機(長春真人)が元の太祖チンギス・ハーンの絶大な信望を得てからは河北を中心に一大勢力を築くにいたった。王重陽の全真教は道仏儒の三教一致の立場に立ち,経典としては《道徳清静経》の《般若心経》と《孝経》を重んじ,あるいはまた道教としては《老子五千言》を,仏教としては達磨の禅教を,儒教としては子思の《中庸》を教の中心としたともいわれるが(《甘水仙源録》),布教の重点は異民族支配下の中国社会庶民層におかれ,日常的な宗教倫理の実践に力点がおかれている。ちなみに〈全真〉の語は中国宗教思想史で《荘子》に初見するが,全真教では道教の神仙を説明して〈幻妄を屛(しりぞ)け去(す)て,其の真を全うする者〉といっている。
なお,全真教の成立した金・元時代の河北ではまた,劉徳仁による大道教(のちに〈真〉字を加えて真大道教),蕭抱珍による太一教(道)などが創立され,全真教と同じく庶民社会に信徒を獲得し,三教一致の平易な実践倫理を説いた(三教一致論)。しかし,これらのいわゆる河北新道教は,神学教理もしくは思想哲学としては,《雲笈七籤》における道教のそれとまったく異質ではなく,前者がその重層構造のなかに立体的に組み込んでいた〈道の教〉としての仏教と儒教とを三教一致という形で並列化し,平面化し,もしくは簡略化してきている。全真教が重視する《般若心経》や達磨の禅教や《孝経》《中庸》などの儒教経典にしても,これらはすでに《雲笈七籤》における道教の神学教理のなかに取り入れられており,それらを庶民社会の宗教的な実践倫理として簡素化し,単純化しているのである。河北新道教の〈道の教〉もまた神学教理ないし思想哲学としては,《雲笈七籤》における道教のそれの延長線上にあると見て大過ないであろう。中国土着の民族宗教としての道教は,11世紀,北宋の初期に編纂された《雲笈七籤》において,神学教理ないし思想哲学としては,基本的に一応完成されていたとみることができよう。
これまで道教は日本(日本の文化)に対しては,ほとんどみるべき影響を与えていないと考えられてきた。その大きな理由としては,日本には神代の遠い昔から固有の宗教的思想信仰として〈神道〉があり,受け入れる必要がなかった,もしくは受け入れることを拒んだからであるとされる。しかし,この〈神道〉という言葉(概念)は,その教義の中枢をなす〈大神〉(天照大神),〈神宮〉(伊勢神宮),〈斎宮〉や,〈神器〉(三種の神器),さらに〈天皇〉〈上皇〉〈大内〉〈仙洞〉〈紫宸〉〈大極〉などの言葉と同じく,もともとは中国語(漢語)であり,中国古代の宗教思想概念,つまり道教の神学用語であった(初見は《易》の観卦の彖(たん)伝)。
〈神道〉という中国語を日本古代で初めて用いているのは,720年(養老4),元正天皇の時代に成った《日本書紀》であるが,《書紀》で用いられている〈神道〉の語の意味内容は,中国の後漢の時代の中ごろ,山東琅邪(ろうや)で成立して〈神書〉とよばれていた《太平清領書》(道教の一切経《道蔵》に収載する《太平経》)のなかで多く用いられている〈神道〉の語の用法に近い。そして当然のことながら中国の史書の体裁にならって漢文で書かれている《日本書紀》においては,〈神代の巻〉冒頭の〈古天地未剖,陰陽不分云々(古(いにしえ),天地未だ剖(わか)れず,陰陽分かれず云々)〉の叙述を初めとして,同じく伊弉諾(いざなき)尊の〈用桃避鬼之縁(桃を用いて鬼を避くるの縁)〉,神武紀の〈郊祀天神(天神を郊祀する)〉,垂仁紀の〈常世国則神仙秘区(常世国(とこよのくに)は則ち神仙の秘区なり)〉など道教の神学教理を踏まえた文章表現が少なくない。とくに推古紀(21年)に載せる皇太子(聖徳太子)が片岡に遊行して飲食などを与えた飢者を〈其れ凡人に非ず,必ずや真人と為すなり〉と感嘆したという説話などは,全面的に中国六朝時代の道教文献《紫陽真人周君内伝》などを下敷きにして書かれており,道教の影響の確実さを実証する。
しかし道教の影響の確認されるのは,記紀のうち漢文で中国風に書かれた《日本書紀》だけではない。本居宣長(《古事記伝》巻一)が,〈大体は漢文のさまなれども,又ひたぶるの漢文にもあらず種々のかきざま〉があると述べた《古事記》の記述にも,同じようなことが指摘される。宣長のいわゆる〈ひたぶるの漢文〉で書かれている太安麻呂の《古事記》序の文章に道教の確実な影響のあることは,文中の〈参神作造化之首(参神,造化の首(はじ)めを作(な)す)〉〈日月彰於洗目(日月は目を洗うに彰(あら)わる)〉〈察生神立人之世(神を生み人を立つるの世を察(つまびら)かにす)〉などの字句表現が,中国南北朝期の道教経典《九天生神章経》や《霊宝五符経》《黄素四十四方経》などの記述を踏まえていることからも明白である。しかし《古事記》は,その序の漢文だけでなく,いわゆる〈変体の漢文〉で書かれている本文の記述のなかにも道教の神学教理の影響は各所に看取される。例えば開巻冒頭の〈天地初めて発(ひら)けし時,高天の原に成れる神の名は天御中主(あめのみなかぬし)神,次に高御産巣日(たかみむすひ)神,神産巣日(かむむすひ)神。此の三柱の神は並(みな)独り神と成りまして身を隠したまひき〉は,この世界の始まりを独り神で身を隠している三柱の神から語り始めているが,天地の開闢を独り神で身を隠している三神から始めるのは,中国南北朝期,6世紀に成立の道教経典《九天生神章経》などの記述(〈空洞の中に隠れた三気の尊神〉)に基づく。また国生み・神生みを終えた伊邪那岐(いざなき)命がついに神避(かむさ)りました妹伊邪那美(いざなみ)命を黄泉国(よみのくに)に追いゆき,〈黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時,其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて待ち撃てば,悉(ことごと)に逃げ返りき〉というのは,《日本書紀》がこれを〈桃を用いて鬼を避くるの縁〉と漢文調で表現しているように,六朝時代の道教文献《漢武帝内伝》などに載せる〈桃実三箇〉の呪術信仰に基づく。このほか,淤能碁呂(おのごろ)島に天降りました伊邪那岐・伊邪那美の2神が〈天の御柱を見立てた〉という天柱信仰,天孫邇々芸(ににぎ)命の降臨に際して天照大神が〈此れの鏡は,専(もは)ら我が御魂(みたま)として,吾が前を拝(いつ)くがごといつきまつれ〉と詔(の)りたもうたという鏡の宗教哲学,大国主神(大穴牟遅(おおなむち)神)の妻の父として出てくる速須佐之男(はやすさのお)命の〈頭を見れば,呉公(むかで)多(さわ)なりき〉という蜈蚣(むかで)の呪術信仰などにも道教の影響が十分に考えられる。
以上は8世紀初めに成った日本最古の歴史書,記紀の神話伝説的記述に指摘される道教の影響であるが,これよりもさらに古く道教の神学教理の影響が看取されるのは,7世紀の後半,《古事記》の原型とされる〈帝紀〉〈旧辞〉を稗田阿礼(ひえだのあれ)に誦習させている天武天皇の治世である。すなわち天皇は684年(天武13)に〈八色(やくさ)の姓(かばね)〉を定めて,その第1位と第5位に道教の神学用語である〈真人〉と〈道師〉を用い,死後にはその諡(おくりな)に道教の神仙信仰をそのまま表す〈瀛真人(おきのまひと)〉の3字が用いられている(真人)。またその皇子である忍壁(おさかべ)は《万葉集》巻九に載せる柿本人麻呂の〈忍壁皇子に献る歌--仙人の形を詠む〉によれば,神仙の信仰もしくは強い関心の持ち主であったことが推定され,同じく皇女の十市の男子である葛野(かどの)王は,吉野の北東にある〈竜門山に遊ぶ〉と題する漢詩を《懐風藻》に載せて,〈安(いずく)にか王喬の道を得て 鶴に控(たずな)して蓬瀛(ほうえい)に入らん〉と歌っている(〈王喬〉は神仙の名。〈蓬瀛〉は神仙の島の名)。道教はこの天武天皇の治世に宮廷を中心として急速に関心の高まりをみせたとみてよいであろう。
《万葉集》巻二に載せる,柿本人麻呂の天武の皇太子草壁の死を悼む挽歌に〈飛鳥(とぶとり)の浄(きよみ)の宮に 神ながら太敷きまして 天皇(すめろき)の敷きます国〉と歌って,〈天皇(てんこう)〉の2字の漢語が原文に〈王〉〈大王〉と代わって用いられている。また《日本書紀》の持統紀4年(690)春正月には,神璽の剣鏡を奉上されて天皇の位に即(つ)く,とあって,道教の2種の神器である〈剣鏡〉がそのまま日本国の天皇の神璽とされていること,さらには天武紀の朱鳥1年(686)春正月に,宴をもろもろの王卿に賜っている大極殿の〈大極〉が道教の神学教理で,〈天地の父母,道の奥〉を意味し(《真誥》甄命授),老君すなわち神格化された哲人老子も太極真人とよばれていること(同上。〈大〉と〈太〉は通用。〈太極〉はもともと《易》の哲学用語),さらにまた同じくこの年の夏4月には伊勢神宮に多紀皇女らを派遣しているが,伊勢神宮の〈神宮〉という言葉もまた祖廟を意味する中国古代の宗教用語であり,道教と密接な関連をもっていることが,そのことを有力に裏づけるであろう。
なお,天武天皇が死を前にして,7月にあわただしく改元している〈朱鳥〉の年号も道教の文献《淮南子(えなんじ)》などに見える言葉で,朱雀と同じく南方の赤い火すなわち生命の充実もしくは蘇(よみがえ)りを象徴し,天皇が病気で〈体不安〉であったためにこの処置が取られたものと見られる。天武の陵墓は大内陵とよばれて道教の神学用語〈大内〉を用いており,また持統の治世に造営された藤原宮が,中国の皇都にならって全面的に道教における皇都の宗教哲学(太極紫宸,陽明,日華月華。四神獣の構造)を下敷きにし,天武をはじめとして皇族の陵墓の多くが,朱鳥もしくは朱雀の象徴する南方,火の方角,道教の神学でいわゆる死者のよみがえりの宮,すなわち〈朱宮〉(〈朱火宮〉)の方向に築かれているのも,このことと密接に関連するであろう。
7世紀後半の天武・持統の治世,ないし8世紀初めの元明・元正の時代に道教の思想信仰への関心の高まりが見られること上述のごとくであるが,《古事記》成立の6年後,《日本書紀》成立の2年前,元正天皇の養老2年(718)ころに成立した現存最古の律令の養老律令では,道教と関連する記述がほとんど表面に見えていない。これはなぜであろうか。中国において律令制を根底から支える政治倫理の哲学はいうまでもなく儒教であるが,古代日本における律令の制定は,7世紀の70年代,天智の治世における近江令を始めとして,漢代儒教の強調する忠孝の教をその根底基軸におき,とくに藤原不比等を撰述の責任者とする養老律令では,基本的に道教は君父を無視する独善の教,忠孝の教に無益であるとして排除されたことが最大の理由として挙げられる。したがって養老令の学令や職員令の図書寮・大学寮などの職制に,道教もしくは道教の学術典籍などに関する言及がまったく見られないのも当然であるが,しかし,それにもかかわらず道教はその面(おもて)を覆った形で養老令の中にも持ちこまれている事実が注目される。
例えば,その神祇令において〈凡そ天神地祇は神祇官皆常典に依りて祭れ〉と規定しているのがそれであり,また〈凡そ践祚の日(中略)忌部,神璽の鏡剣たてまつれ〉〈凡そ六月,十二月の晦の日の大祓には(中略)東西の文部,祓の刀たてまつりて祓詞(はらいごと)読め〉と規定しているのなどがそれである(このときの〈祓詞〉は《延喜式》巻八などに載せられているが,その内容はまったく道教的である)。また中務省に所属する陰陽(おんみよう)寮においては,陰陽頭(かみ)の職掌として〈天文,暦数,風雲の気色,異(あや)しきこと有らば,密封して奏聞せむ事〉を規定し,その属僚として〈占筮して地を相(うらな)う〉ことを職掌とする陰陽師6人,陰陽生(定員10人)を教育指導する陰陽博士1人,〈天文の気色を候(うかが)い,異しきこと有らば密封する〉ことを職掌とする天文博士1人などが記載されている。さらにまた宮内省に所属する典薬寮には,典薬頭の属僚として医師10人,針師5人,案摩師2人のほか,呪禁の事をつかさどる呪禁師2人,呪禁生6人を教育指導する呪禁博士1人が記載されているが,これらの陰陽頭や陰陽博士,典薬寮の呪禁師などの職掌は,〈陰陽〉〈占筮相地〉〈呪禁〉などの言葉が何よりも端的に示しているように,道教の神学教理もしくは道術を大幅に持ちこんだものであり,道教のそれらを学習し修得することなしには,その職務を遂行することが不可能ともいえる性格のものであった。そのことは4世紀以後,中国南北朝期から11世紀末,隋・唐・五代・宋初に至る道教の神学教理もしくは道術--その思想的根底基盤をなすものは,《易》(《易緯》)の陰陽五行を中心とする〈神道〉の哲学と《老子》の〈道〉と〈玄妙〉の形而上学。またそれを文献資料として収集整理し,一応,体系的に分類しているのは,6世紀の後半,北周の武帝の勅撰に成る《無上秘要》100巻および11世紀の初め,北宋の真宗の勅撰に成る《雲笈七籤》120巻--を具体的に検討考察すれば,十分に実証されるであろう。そして養老令の中に見える陰陽師や呪禁師の道術が道教のそれと同類であり,もしくは共通のものであることが確認されれば,日本で古来陰陽道とよばれている呪術宗教的な道術も,道教の単なる一部門でしかなく,道教の神学教理の全体系のうち,陰陽五行の易学理論ととくに密着するものを取り出して,陰陽道とよんでいるにすぎないことが理解されよう。
日本の文化における道教の影響を新しく考え直していくためには,これまで日本固有の神道とよばれ,陰陽道とよばれてきた宗教哲学的もしくは呪術宗教的思想と信仰のすべてを,中国における道教の教理百科全書《無上秘要》および《雲笈七籤》の記述内容のすべてと詳細に比較検討していくことが先決の問題である。
執筆者:福永 光司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
道教は、中国民族の固有の生活文化のなかの生活信条、宗教的信仰を基礎とした、中国の代表的な民族宗教である。それは漢時代以前の巫祝(ふしゅく)信仰や神仙方術的信仰および民衆の意識などが基盤となって、漢代に黄老(こうろう)信仰が加わり、おおむね後漢(ごかん)末から六朝(りくちょう)時代にかけて形成され、現在でも台湾や香港(ホンコン)などの中国人社会で信仰されている。初期の道教的信仰は、不老不死の神仙を希求したり、巫術や道術による治病や攘災(じょうさい)に重点を置いたが、儒教や仏教と競合し、影響しあい、内的修養や民衆的道徳意識の堅持を中心とする信仰をも重視するように発展した。
[酒井忠夫]
道教とは、その思想、教理、技術、社会、教団、信仰対象および信仰儀礼などすべての要素を含む文化複合体である。それは、中国の歴史、風土、地域的条件のなかで、政治や社会、文化などと関連しながら展開された生活文化を基礎とするものである。いわば中国民族固有の宗教文化であるといえる。同じような発展形式をもつものに儒教がある。しかし両者の差は、儒教が中国の社会、国家の秩序、および学問技術を統治者の立場から究明しようとするのに対し、道教は宗教的要素を中心にして、社会の秩序および学問技術を民衆の立場から究めようとするところにある。したがってそれには、儒教の退けた迷信や魑魅魍魎(ちみもうりょう)、変怪鬼物など、巫祝的鬼神信仰も含まれる。この道教の概念は、「民衆道教」と「教会道教」(成立道教)の二つに大別することができる。民衆道教とは、農民や民衆一般の信仰や生活信条およびそれによって組織された集団や結社をいう。これは後漢末にはおこっていたが、とくに宋(そう)代以降の庶民社会の発展に対応して儒教や仏教などとの合一下に展開したものである。一方の教会道教とは、国家や王朝によって公認された道教の教団・教派であり、5世紀の寇謙之(こうけんし)の「新天師道」が最初である。天師道は初め、「三張(張陵(ちょうりょう)、張衡(ちょうこう)、張魯(ちょうろ))の五斗米道(ごとべいどう)」といわれ、後漢末におこった農民を主とする初期の民衆道教であったが、魏(ぎ)・晋(しん)の政権下に発展した新五斗米道すなわち新天師道は北魏王朝の公認によって教会道教となった。
[酒井忠夫]
道教の原義は「道を説く教え」である。その「道」とは、儒家や道家(どうか)をはじめとして、中国のあらゆる思想・哲学を説く学説の中心にある、いわば中国人の意識の根底に存在するものである。「道教」の語は先秦(しん)時代から使われており、初めは「聖人の道の教え」という意味をもって儒教をさしていた。また、仏教伝来後は仏教をも意味した時代がある。つまり、これらは「先王や聖人の道を説く教え」という意味であって、今日いわれる中国の民族宗教としての道教をさしたものではない。この「聖人の道の教え」を具体的に実現するための方法・術を「道術」と称した。「道術」とは、元来「聖人の道の術」すなわち治世治民のための政治の術であった。一方、仙人になるための方法、あるいは仙人と交感するための方法として「神仙方術」、医療技術としての「医方術」、そのほか科学技術や呪術(じゅじゅつ)などが種々の「方術」として存在していた。この道術を行うものが道士で、方術を行うものが方士である。道術と方術の差をしいていえば、前者が国家・政治に関する経世・治民の術であるのに対し、後者は個人的・宗教的性格をもつことである。ところが後漢代に入ると、この両者は混同されてくる。したがって後漢代には、道術の範囲が非常に拡大され、政治術や科学的技術から呪術や予言・卜占(ぼくせん)などの宗教的霊力を含めるものとなった。しかもこれらを行う者は道術の士すなわち「道士」とよばれた。この場合の「道士」は、元来の聖人の道の道術の士としての「道士」よりは、宗教的要素をもった「道士」である。道士を指導者として道術を行う宗教集団である「道」、すなわち鬼道(きどう)、神道(しんどう)、太平道、五斗米道などの「道」が生まれた。巫医の呪術(まじない)や符(御札(おふだ))を使う宗教集団は、鬼道とよばれた。太平道や、三張の五斗米道なども鬼道を重要な要素とした初期の道教的集団である。また鬼道に対して「神道」の成語が行われた。「鬼神」の「鬼」について「鬼道」が生まれ、「神」について「神道」が生まれた。「神道」はまず神を祀(まつ)る「壇」に通ずる道路を意味したが、しだいに信仰の客体である神そのもの、または神信仰に基づく宗教集団や教えをも意味するようになった。「道家」は、諸子百家の一つであるが、戦国時代に儒家、法家、墨家および方技・神仙などと交流があり、秦・前漢を経て、後漢代には「道家」の概念のなかには宗教的要素も混入するに至った。つまり、道家という概念は、今日いう老子・荘子の思想・哲学を中心とした哲学的道家だけではなく、「道術」「方術」を含めたより広範な意味をもつものとなってきた。こうして後漢代から六朝期にかけ、「道家」は今日のいわゆる宗教としての「道教」という語に通じた成語として用いられるようになった。
[酒井忠夫]
以上のような道家・道教の概念の変遷は、そのまま道教成立前史に関係する。紀元前3世紀ころの戦国時代に、燕(えん)・斉(せい)(河北省・山東省)地方には、「方僊道(ほうせんどう)」とよばれる神仙方術を主とした宗教集団が存在した。もともと斉の国には民間の巫祝(呪術師)による農作のための山川(さんせん)の祭りと、それを基礎にして王侯が農作を祈る八神(天主、地主、陰主、陽主、月主、日主など)の祀りによる山川の祭祀(さいし)があった。この八神の祀りに、当時すでに発達していた経絡(けいらく)医経(鍼灸(しんきゅう)医療学)や本草経方(ほんぞうきょうほう)(漢方医薬学)の学問と歩引(ほいん)、按摩(あんま)、服餌(ふくじ)、黄冶(こうや)(体操、食物、錬金養生)などの神僊術を結合してできたものが方僊道である。方僊道は神仙方士による宗教集団であり、彼ら方士のことばを信じて斉や燕の王侯貴族、あるいは秦の始皇帝などが、不老不死の神仙薬を得るため、神仙が住むという渤海(ぼっかい)湾上の三神山、すなわち蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)に人を派遣したり、方士に神仙の薬、とくに黄金をつくらせてそれを服用し不死を得ようとした。錬金術によってつくられた黄金は、不死の薬のなかでもっとも効果のあるものと考えられた。渤海湾上に遣わされた方士のうち有名な方士が徐(じょふつ)(徐福(じょふく))とよばれる者で、日本の伝説によると紀州(和歌山県)熊野などに流れ着いたとされる。
また、秦の始皇帝は、これら方士の説く「封禅説(ほうぜんせつ)」によって、八神のなかの地主とされる泰山(たいざん)とその支峰である梁父(りょうふ)で天地の神を祀り(封禅)、天神と交感し不死を得ようとした。戦国時代の斉は威王・宣王のときが最盛期で、その都の臨淄(りんし)には中国全土からいろいろな学者が集まり、中国文化・学術の一大中心地となった(稷下(しょくか)の学)。なかでも斉の学者鄒衍(すうえん)は陰陽五行説(いんようごぎょうせつ)を唱え、当時最高の学者と称された。方士たちはこの陰陽五行説を巧みに利用して、神仙説や封禅説に取り入れたのである。また西北内陸方面では山岳信仰をもとに、崑崙山(こんろんさん)神仙説が形成され、揚子江(ようすこう)中流域にはこれらと連なって別の神仙説が生まれていた。なお、方僊道の勃興(ぼっこう)は、燕・斉の海流による原始的な海上交易や、名山に薬草や黄金を求める方技の徒や山師の活躍ともかかわりがあるようで、朝鮮半島での神仙説の形成や弥生(やよい)時代の日本への徐福渡来の伝説も、こうした事象との関連で考えたほうがよい。
神話のなかで中国の造物主とされる黄(こう)帝は、戦国時代から方僊道や医方術と結び付けられ神仙の祖とされた。漢代の学問を記した『漢書(かんじょ)』の「芸文志(げいもんし)」の方技(医薬学や神仙など)のなかには、黄帝の名を冠してその書名としたものが少なくない。神仙となった黄帝と、道家の老子とが結合して「黄老の言」が行われた。戦国末から秦代・漢初にかけて「道家」「法家」一体の政治が行われたが、道家の立場からすれば「黄老の言」に基づいた「黄老の術」による政治であった。黄帝とともに老子の神仙化、「黄老」の神仙的客体化が進むなかで、後漢代になると、『河図洛書(かとらくしょ)』の予言書を基礎として前漢末にはすでにおこっていた讖緯(しんい)説が道教的思想形成に影響を与えた。讖緯とは、儒家の「経」の説を、陰陽五行説や「数術」系の他の学説によって補い、主として社会的・政治的事象についての予言を内容とする学説である。この讖緯説や、仏教の影響も加わって、宗教集団「黄老道」がおこった。仏教と中国文化との相互影響の結果、「黄老」は浮屠(ふと)(ブッダの古い漢訳)と同類と考えられ、老子の神格化が行われ、信仰の客体としての「太上老君(たいじょうろうくん)」が成立した。後漢中期から末期にかけて、黄老道や呪術を主とする巫祝道(鬼道)が母胎となって、農民・民衆の宗教結社である太平道、五斗米道がおこる。太平道も五斗米道も初期の道教的教団で、ことに五斗米道については、この後「天師道」とも称されて道教の主要な一派を形成していく。したがって道教史のうえからは、太平道や五斗米道の成立までを道教前史(原始道教)として、以後の道教史と区別することができる。
[酒井忠夫]
太平道は、後漢中期に干吉(かんきつ)(あるいは于吉(うきつ))が太上老君より『太平清領書(たいへいせいりょうしょ)』(太平経(たいへいきょう))を授けられたことに発する。この経典を宗教運動のよりどころとして、河北の張角が太平道を組織した。しかし、張角はのちに反乱を起こし、そのために太平道は滅ぼされ、民間に残った余党が五斗米道と合体していった。その五斗米道は、張陵が四川(しせん)の成都地域で始めた宗教集団である。道家の思想を中心とし、呪術的な治病を行い、その謝礼として米5斗(日本の約5升)を納めさせたのでこの名が生まれた。病人を静室に入れて過去の罪を反省させ、天・地・水の神すなわち天官・地官・水官の3官に、自分の名と過去の罪過を書いた書3通を捧(ささ)げ、贖罪(しょくざい)のための供物や労働力を提供すれば、病は治ると信じられた。このような過去の罪過によって病気がおこされるという考え方は、太平道にも存在した。五斗米道が宗教教団としての組織を確立するのは、張陵の子の張衡や孫の張魯のときになってからである。ことに張魯のときには益州の長官の保護を受け盛んとなったが、のちに圧迫されて四川東部から陝西(せんせい)の漢中にかけての地に移り、曹操(そうそう)に降(くだ)りその諸侯となって、潼関(どうかん)以東(関東)の豪族・貴族や農民の間に勢力を拡大していった。この関東の五斗米道は、原始的な呪術を中心とする教団から、豪族・貴族と結び付いて、神仙方術や他の道術を主とする教団へと変化していった。この系統の五斗米道は江南(揚子江以南)にまで広がり、晋代の著名な書家王羲之(おうぎし)一族にみられるような貴族型の五斗米道信仰や、東晋末期の孫恩(そんおん)や盧循(ろじゅん)に率いられた農民・民衆型の宗教反乱を生み出した。一方、華北地方に流布した五斗米道は、仏教と競合したり、儒教的秩序を取り入れたりして、寇謙之の「新天師道」に発展した。この新天師道は北魏の太武(たいぶ)帝によって国教とされ、いわゆる教会道教がここに成立した。
また江蘇(こうそ)・江南の豪族層を基盤にして後漢末から六朝期にかけ、神仙道に諸子・黄老の思想と種々の道術や讖緯思想などを複合化した道術的宗教が生まれ、左慈(さじ)、葛玄(かつげん)、葛洪(かっこう)らが現れた。漢末の戦乱を江南に避けた道士左慈によってまとめられて、その教えを受けた葛玄一族に継承されたこの系統の道術的宗教は「葛氏道(かつしどう)」とも称される。葛玄を従祖父とする葛洪は『抱朴子(ほうぼくし)』を著し、この系統に伝えられる錬金術による神仙方術を集成した。また葛洪ののち、葛氏一族の手で後の『霊宝経(れいほうきょう)』の基本部分がつくられた。この経典は、のち道教のこの系統の経典類となって継承される。また同じころ、江蘇の茅山(ぼうざん)では、364年に道士楊羲(ようぎ)が『上清経(じょうせいきょう)』とよばれる経典を感得していたと伝えられる。呉(ご)の宰相の子孫といわれる劉宋(りゅうそう)期の陸修静(りくしゅうせい)は、本来天師道系の道士であったが、諸国を巡るうちこの『上清経』を手に入れこれを整理した。彼はまた葛氏道にも通じていたので初期の『霊宝経』をも整え、後の道教経典の集大成である「道蔵(どうぞう)」の分類体系「三洞説(さんどうせつ)」を確立した。陸修静の経典整備の後を受けたのが陶弘景(とうこうけい)であり、彼は茅山を拠点として『上清経』を大成し、いわゆる「上清派」を確立した。彼の思想は、科学的な医経・経方・神仙の学を基礎としたもので、それにはさらに仏教との交流もみられ、彼は初めて理論的な道教教学を打ち立てたといえる。
六朝末から隋(ずい)代には、華北に新天師道、江南地域に天師道と上清派がそれぞれ展開していた。唐代に入ると、上清派の本拠である茅山を中心として、南北道教の統合と交流を目ざす動きが活発となる。陶弘景の教学を受けた唐初の上清派道士王遠知(おうえんち)は、初め新天師道の修行をしたし、弟子の潘師正(はんしせい)は茅山から新天師道の拠点嵩山(すうざん)へと移り住んだ。このような上清派の活躍は、茅山を唐代道教の中心的な存在とし、上清派を天師道と並ぶ道教の二大流派に育てた。
[酒井忠夫]
北魏の太武(たいぶ)帝(在位423~452)は宰相崔浩(さいこう)の勧めによって寇謙之の新天師道を国教とし、年号も太平真君と号した(440)。道教を信じた漢人豪族の崔浩は、夷狄(いてき)の教えであり王朝の財政を損なう仏教を排除しようとして、太武帝に勧めて446年に仏教弾圧を行わせた(三武一宗(さんぶいっそう)の法難の第1回)。太武帝ののち仏教は復興したが、北周の武帝(在位560~578)のときふたたび弾圧された。北周の武帝は、儒教的王朝体制に、仏・道両教を順応させる政策を進めた。569年に前後3回、儒・仏・道三教の論客を集めて法論を行わせたが決着をみず、かえって仏教側が『笑道(しょうどう)論』や『二教論』をつくって道教を攻撃した。572年の法論では、武帝は三教の順位を儒・道・仏としたが、574年の道・仏の法論で、道士張賓(ちょうひん)が仏教側によって論破されたので、ついに仏・道両教をともに廃し、僧・道を還俗(げんぞく)させた(法難の第2回)。続いて「玄都観」を「通道観」と改めて国立宗教研究所とし、三教の師の優れた者を通道観学士として、そこで仏・道二教の儒教化の研究を行わせた。
六朝時代から唐初には、数術・方技の学問に秀でて王朝の政治顧問となったり、特別の待遇を受けたり、太史令に任命されたりした道士が現れた。南朝梁(りょう)の陶弘景、その弟子王遠知、唐初の傅奕(ふえき)らである。隋の文帝は仏教を重んじたが、北周の武帝が都長安に設けた通道観を玄都観にあわせ、玄都観を仏教側の大興善寺と並置した。次の煬帝(ようだい)は、神仙説を信じ、道術に優れた道士を重んじたが、王遠知は近づかなかった。
唐の高祖李淵(りえん)、太宗李世民(りせいみん)は、即位前から王遠知による太上老君の告げを受けて唐の建国の業を進めた。太上老君すなわち老子の姓が唐室と同じであるところから、唐室の祖は老子であるとされた。唐室の受命を予言した王遠知には特別の位を与えて紫衣(しえ)を賜り、太史令に道士傅奕を任命した。太宗のとき、宮中での僧・道の順序を、道先仏後としたが、則天武后は仏教を重んじ順序を逆にした。玄宗は道教に傾倒し自らも法籙(ほうろく)を受け、太上老君を太上玄元皇帝として玄元皇帝廟(びょう)を各地に建てた。また科挙(かきょ)と同じく道挙(どうきょ)制を定め、道士の官吏登用の道を開いた。玄元皇帝廟に「崇元(すうげん)学」を、諸州に「道学」を設け、学生に老子、荘子、列子などを習わせた。その成果を明経(めいけい)科に倣って試験を行った。唐初の道士には、前記の王遠知や傅奕のほかに、方技の学に優れ『千金方』(「道蔵」収)を著した孫思邈(そんしばく)がいる。高宗のときには王遠知の弟子潘師正、符籙呪術・占卜(せんぼく)・養生の術に優れた葉法善(しょうほうぜん)らが重用された。とくに葉は高宗から中宗に至るまで、皇帝の側近にいて信任された。上清派の司馬承禎(しばしょうてい)は、玄宗の信任厚く、玄宗に法籙を授けた。武宗は趙帰真(ちょうきしん)ら81人の道士を宮中に召して斎(さい)(祭祀)を行わせ、宮中の九天壇で法籙を受けて道士皇帝となった。趙の進言によって845年に仏教弾圧(会昌(かいしょう)の法難の第3回)を行った。続いて五代の後周(こうしゅう)の世宗(せいそう)は、955年に廃仏(法難の第4回)を行った。この廃仏では、国家財政の立て直しのため、堕落した仏教教団を厳しく粛正したが、道教への打撃は少なかった。このとき、還俗させ「民」とした私度(しど)の僧尼が多かった。僧・道ともにその得度(とくど)を証明する官文書すなわち度牒(どちょう)が発給された。この度牒の制は六朝時代に始まるらしいが、その制度が固まったのは唐代からである。度牒の制は僧尼について明らかにされることが多く、道士・女冠(にょかん)については、僧尼に準じて扱われたと考えてよい。度牒の発給には試経(試験)がたてまえであったが、官許の度牒をもたぬ「偽濫(ぎらん)」の僧・道や、売牒の問題などを生じた。それは道士より僧尼に多かったとみられる。
五代時代、江南各国では道教が発展した。唐末五代の道士杜光庭(とこうてい)は、江南の茅山派、竜虎(りゅうこ)山(江西省)の天師道派などの系統に属し、四川に入って前蜀(ぜんしょく)の王建(おうけん)・王衍(おうえん)に重んじられ、道経を整理し儀礼を集成した。後蜀(こうしょく)も呉も、呉の後を受けた南唐も、その領域内の道教を保護した。竜虎山の張天師道が荘園(しょうえん)を与えられて教団としての基礎を固めたのは、呉・南唐治下においてであった。呉越(ごえつ)国は茅山派の師承の閭丘方遠(りょきゅうほうえん)を重んじた。
宋代には、遼(りょう)との戦争で敗れ、澶淵(せんえん)の盟(1004)を結んだ真宗(しんそう)(在位998~1022)のとき、おもに茅山派道士が儒教的天の信仰と道教の降神術とを結び付けて、1008年「天書事件」を起こした。天書によって道教政治を行えば宋朝の世は永く続くとの神の告げが示された。さらに1012年には宋朝の始祖神の降下事件が起こった。真宗は道教尊重政策を強め、1015年には竜虎山天師道の第24代天師張正随(ちょうせいずい)を召して王朝と天師道との関係を固めた。このころから道観(道教の寺院)を高級官僚が管理する制度が生まれた。真宗は宰相王欽若(おうきんじゃく)(962―1025)を総裁として道士を動員して道蔵を編集させ『宝文統録(ほうもんとうろく)』を編した。ついで1013年、道士張君房(ちょうくんぼう)らをして整備させた道蔵『大宋天宮宝蔵(たいそうてんきゅうほうぞう)』を完成させた。張君房はその精要をとって『雲笈七籤(うんきゅうしちせん)』を著した。宋は国難に対して王安石の「新法」を行うだけでなく、道教の力を借りようとした。徽宗(きそう)は、五雷法という道術を行う道士林霊素(りんれいそ)を重用した。また自ら『老子』『荘子(そうじ)』の注釈を著した。南宋以後は、政治・軍事のための宗教の利用は弱くなり、王政による仏・道の管理、僧・道の「民」化策が強められた。度牒を受けた僧侶(そうりょ)・道士を管理する官庁が中唐以後しだいに固まり、宋代には「僧録司(そうろくし)」「道録司(どうろくし)」の制が定められ、この道録司に所属する「道官(どうかん)」が、全道士・女冠を管理し、道官には優れた道士が任命された。僧侶・道士の籍帳も「民」と同じく記載され、1145年から「民」の税役に準じて僧侶・道士から免丁銭(めんていせん)を徴収した。
仏教の中国伝来によって、それまでの中国文化内での儒家と道家の対立と融合に加えて、儒・道対仏家の文化摩擦が激しくおこっていた。その結果、三家相互間の競合や仏家の儒家化によって儒頭道仏両脚型(六朝末)の三教関係が生まれた。その間、儒家・道士・沙門(しゃもん)の三教兼修が広がった。
[酒井忠夫]
唐室の道教信奉策のために、教会道教の教域は確実に中国全土に広まった。唐末以来、各地に伝わった道教は、その地域の習俗と結合し、三教合一の民間信仰(民衆的道教信仰)を発展させた。こうして宋代になると、庶民社会の発展を背景として三教合一の新しい民衆道教が展開された。
宋代の民衆道教の特色は、儒仏道三教の合一・混合的形態をとり、士庶ともに通用する善(道徳)を実践し、他人にも勧めて、生活文化のなかの民衆的道教信仰を深める傾向が強かった。民衆道教では、後述の民衆の主体性の強い民衆的道徳実践を説いた『功過格(こうかかく)』がつくられたり、民衆社会に密着した新道教教団が生まれたりした。それは庶民社会の発展とともに北方からの「金」国の支配と圧迫に刺激された庶民社会の活性化によるものであろう。
民衆道教を基礎として形成された道教教団を「新道教」とよぶ。新道教のなかでもっとも早く成立したのは、河南の蕭抱珍(しょうほうちん)による「太一(たいいつ)教」である。これは、葷酒妻帯(くんしゅさいたい)を禁じ、日常倫理を重んじ、とくに符と祈祷(きとう)による治病・除災を主とした教団である。次に山東の劉徳仁(りゅうとくじん)は「真大道(しんだいどう)教」を開いた。この教団の教法では、天に対する祈念を通じて、葷酒邪淫(じゃいん)を禁じ、忠孝など日常倫理の堅持が説かれた。また、のちにもっとも有力な道教教団となった「全真教(ぜんしんきょう)」は王重陽(おうちょうよう)(王嚞(おうてつ))によって開かれ、基本的には儒仏道三教同源の立場をとり、『般若心経(はんにゃしんぎょう)』『孝経』『道徳経』『清浄経』などを経典として読み、符呪の術を退け、不老不死の神仙説によらず、もっぱら内外両面の修行(自利利他の「真功(しんこう)」と「真行(しんぎょう)」の実践)を説いた。
また、庶民の道徳意識の高揚によって、日常倫理の実践が宗教化したものに「善書(ぜんしょ)」がある。これは勧善の書(かんぜんのしょ)(善行を勧める書物)で、庶民的道徳の基礎のうえに道教信仰や仏教思想によって庶民の生活倫理を説く民衆道徳書である。代表的な善書である『太上感応篇(たいじょうかんおうへん)』が江南の下層読書人によってつくられたのもこのころ、すなわち南宋初のことである。一方、数術・方技の道術をよくする許真君(きょしんくん)に対する信仰が、揚子江中流域で六朝時代ころから行われていたが、「宋」王朝の「金」との戦いを機に、この信仰に「忠孝の法」が加わり、「浄明忠孝道」という宗教集団がおこり、元代に劉玉真(りゅうぎょくしん)によってこの「浄明道」は確立した。『太微仙君(たいびせんくん)功過格』という善書は、この教団によって、12世紀後期に「金」の支配下でつくられたといわれる。『功過格』という善書では、日常の行動を功(善行)と過(悪行)に分け、それぞれに点数をつけ、功過の計算をして功の数が多くなることによって福が与えられるとした。なお、元朝の信頼を受けた全真教の道士丘処機(きゅうしょき)(長春真人)によって、全真教は華北全域にその勢力を拡大した。長春真人の全真教派は龍門(りゅうもん)派とよばれた。北京(ペキン)の白雲観(はくうんかん)は全真教の道観の代表で、十方叢林(じっぽうそうりん)(各流派道士の修行のための道場)であった。方技のなかの神仙を基礎とする神仙道の黄冶金丹(こうやきんたん)を中心とする金丹道は古くからあると考えられるが、北宋中期ころ張伯端(ちょうはくたん)(張紫陽)が現れて『悟真篇』を著して金丹道の名を高めるとともに、全真教の盛名を利用して自らを全真教南宗、王嚞系を全真教北宗と称した。明(みん)代初には金丹道のなかに神仙としての「張三丰(ちょうさんぼう)」の名が広く伝えられ、その影響は、明末の金丹道に及んだ。また明初から張三丰は、湖北省の武当(ぶとう)山(太和山(たいわさん))を本拠とする玄天上帝(真武)信仰の道教教団(武当道)に関係がある神仙道士であるといわれた。なお、清(しん)代には金丹道に劉一民(りゅういちみん)が出てその理論を深めた。
宋代以後の新道教教団は、竜虎山の正一教(しょういっきょう)(天師道が正一教と称されるのは元代からである)など旧道教教団とともに、明朝以後、王朝によってより強く管理された。元の世祖(せいそ)は、江南の道教は正一教に、華北の道教は全真教に、その管理権を与えた。また度牒の発給と地方の道官の任命権をも与えた。明朝は礼部に道録司を置き、正一・全真に分けて管理した。さらに竜虎山に正一真人以下の道官を、茅山・太和山などにも道官を置いた。明・清(しん)代の道官は俸禄(ほうろく)を与えられず、事実上、教団管理の職役と化した。元末から正一教と王朝の結び付きが強くなり、とくに明初には正一教の符讖(ふしん)が明朝と正一教の結び付きを密接にした。こうして明朝は正一教教団を中心に道教界を管理した。また明の英宗は、1445年に『正統道蔵』を、神宗は1601年に『万暦(ばんれき)続道蔵』を編集させた。これが現在広く行われている「道蔵」である。王朝の管理下にあって仏・道教団はその活力を失い、そのうえ、15世紀後半から財政補填(ほてん)のため僧・道の売牒を行ったので、僧・道の社会的地位が低下し、民間の宗教結社が多く生まれた。清朝は明朝の政策を踏襲して仏・道両教および民間の宗教結社の管理・取締りを厳重にし、正一天師の官品を大いに低くした。
[酒井忠夫]
清末から五・四文化運動のときにかけて迷信・旧宗教の排除運動が高まった。中国国民党は、1928年「神祠(しんし)存廃標準」を発表し、迷信的神祠を排除した。この政策は、現代の中華民国に受け継がれている。一方、中国共産党は、宗教をアヘンとする立場から、道教、儒教、仏教を排斥した。人民共和国成立後、すべての宗教が排除され、文化大革命によって多くの文献および史跡が破壊された。竜虎山の正一天師道の本拠の建物は他に転用された。しかし最近は白雲観など各地の代表的道観が復活してきた。台湾には張陵以来の血統を受ける張天師が存在し、福建の道教信仰が保存され、多くの寺廟が栄え、「一貫道(いっかんどう)」をはじめ、各種の宗教結社も邪教的性格を改めて存続している。香港にも道教信仰が残り、全真教の青松観をはじめ道観や廟が栄えている。道教的結社紅卍字(こうまんじ)会の本部は現在のところこの地にある。東南アジアの華人社会や海外の華僑(かきょう)のなかでも道教信仰は盛んである。アメリカ合衆国サンフランシスコの中華街には、香港の青松観の支部があり、日本の横浜や神戸には、関帝廟(かんていびょう)があって在日華僑の信仰を集めている。
[酒井忠夫]
道教の要素である民間信仰や思想は中国の周辺地域に伝播(でんぱ)した。朝鮮半島へは高麗(こうらい)時代に仏教などとともに影響を及ぼした。11~12世紀には、宮廷で道教の斎醮(さいしょう)が行われ、道観「福源観」が設けられた。こうした道教の影響は李氏(りし)朝鮮王朝時代にも続いたが、それらは半島固有の文化と競合し、半島型の信仰として消化された。したがって、漢字で同様に呼称される神信仰があったとしても、半島と中国ではまったく異質なものであることが多い。日本への道教信仰の伝播は、朝鮮半島よりさらに希薄であった。宮廷での道教の祭祀や道観が設けられたこともなかったし、『抱朴子』をはじめとする数種の道教経典も、他の書物と同様に思想や技術の書として伝えられたにすぎない。それらの一部は半島経由で日本にもたらされたが、のちに密教の伝来と重なり、日本固有の山岳信仰と結合して「修験道(しゅげんどう)」が生まれた。また、暦、天文、陰陽五行などの学問や技術と唐代中国の官制が影響して陰陽寮(おんみょうりょう)がつくられ、これが民間宗教と競合して陰陽道(おんみょうどう)を成立させた。しかし、これらは、道教を形成するごく一部の要素が日本の固有文化に影響したものであって、道教の信仰や儀礼がそのまま伝わったわけではない。三尸庚申(さんしこうしん)説や太山府君(たいざんふくん)の信仰も、日本の民間信仰と結び付いて、道教信仰とは別の発達を遂げた。ことに太山府君については、道教成立前のものが伝えられていた。「天皇」の成語は道教からきたという説があるが、そうではなく、数術の一つである「天文」学と讖緯説の混合した学問で説かれる「天皇」の漢字成語が取り入れられたものである。
[酒井忠夫]
もともと道教の経典類には、古くは後漢(ごかん)の太平道の『太平経』、五斗米道の『老子』あるいは六朝初期の『上清経』や『霊宝経』があったが、これらとは別に、各教団や結社に伝えられた神から伝えられたという経典や、符、神図など多種多様のものが存在した。葛洪の『抱朴子』中には、4世紀初期の経典類の目録があり、初期の経典類の名が明らかにされている。こうした多様の道教経典に一つの分類基準をつくったのが陸修静で、その三洞(さんどう)説によって、『上清経』は「洞真(とうしん)部」に、『霊宝経』は「洞玄(とうげん)部」に、『三皇経』は「洞神部」に分けられた。その後6世紀の前半に「四輔(しほ)」の考え方が成立し、洞玄を輔佐する経典として「太玄部」、洞真を輔佐する「太平部」、洞神を輔佐する「太清(たいせい)部」、三洞すべてを輔佐する「正一部」の各部が付加され、ここに「三洞四輔(さんどうしほ)」の現在の道蔵分類が確立した。具体的には、太玄部には『老子』を中心とするもの、太平部は『太平経』、太清部は錬金術関係、正一部は五斗米道(天師道)の系統に属する経典である。道教経典のなかには、仏教経典から改作されたものがあり、仏教との対抗上、儀礼や戒律などの多くの経典も増作集成された。
民衆道教の経典としては、その一部は道蔵に入っているが、多数の善書や宝巻(ほうかん)をあげることができる。善書の出現は宋代に始まるが、明末には儒家の袁黄(えんこう)(了凡(りょうぼん))、仏家の袾宏(しゅこう)らが、善書運動を盛んにし、明末清初には多くの善書が作製された。そのなかには多種の『功過格』『陰隲文(いんしつぶん)』『関帝覚世経(かんていかくせいきょう)』などがある。『関帝覚世経』のほかに清中期に現れた『関帝明聖経(めいせいきょう)』がある。善書の製作は清末以後現代に至るまで台湾、香港、東南アジアなどで続いている。宝巻には、庶民文学作品と宗教結社関係の経典の両種がある。後者のなかには、無為教(羅(ら)教)の5部6冊などがあるが、それらの多くは清末の『破邪詳弁(はじゃしょうべん)』という書物に記載されている。
[酒井忠夫]
『小柳司気太著『老荘の思想と道教』(1942・関書院)』▽『福井康順著『道教の基礎的研究』(1952・理想社)』▽『酒井忠夫著『中国善書の研究』(1960・弘文堂)』▽『窪徳忠著『庚申信仰の研究』(1961・日本学術振興会)』▽『酒井忠夫編『道教の総合的研究』(1977・国書刊行会)』▽『窪徳忠著『道教史』(1977・山川出版社)』▽『楠山春樹著『老子伝説の研究』(1979・創文社)』▽『福井康順・山崎宏・木村英一・酒井忠夫監修『道教』全3巻(1983・平河出版社)』▽『劉枝萬著『中国道教の祭りと信仰』(1983・桜楓社)』▽『大淵忍爾編『中国人の宗教儀礼』(1983・福武書店)』
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中国の宗教で,儒教,仏教とともに三教と称せられる。その起源は,後漢末の張陵(ちょうりょう)の五斗米道(ごとべいどう)(天師道)にある。これは病気の原因を人の罪に帰して懺悔を勧めるもので,この教えは魏晋時代には農民だけでなく貴族階級の間にも広まった。他方貴族の間には本来老荘的な修養と,不老長生を願い丹薬を錬る神仙術が流行しており,これが晋の葛洪(かっこう)により集大成されて,天師道に影響を与えた。さらに仏教を参酌して,より王朝支配と官僚社会に適合するものになったのが,北魏の寇謙之(こうけんし)や南朝梁(りょう)の陶弘景(とうこうけい)のときである。以後王朝の保護を受けて仏教と対立した。のち金代の華北に王重陽(おうじゅうよう)が出てこれを改革し,全真教を始めた。それは錬丹(れんたん),長生よりも修養を重んじたが,一方で旧来の道教も正一教(せいいつきょう)と称せられて,依然江南で流行した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
中国におこった宗教。中国古代のアニミズムにもとづく自然宗教を母体とし,教理的には道家思想が強いが,その中心は神仙思想であり長寿を目的とする。7世紀以降老子を教祖と説くようになるが,実際の開祖は不明。儒教・仏教,陰陽・五行・墨子(ぼくし)・易などの諸思想や,医術・巫(ふ)術の要素が認められ,また長寿などの現世利益の成就と関連して呪術宗教としての性格も強い。道士の支える成立道教と民衆道教(道教的民間信仰)に大別できるが,前者のみに特定して道教の名称が使われる場合もある。道士は妻帯を禁止されて道観(どうかん)(道教の寺)で生活をともにし,古来,天師道・上清派・新天師道・全真教・浄明忠孝道などの宗派を形成。日本・朝鮮半島・東南アジアの一部にも伝播している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 占い学校 アカデメイア・カレッジ占い用語集について 情報
…天子が天下を統治することを〈鏡を握る〉と表現するのも,こうした観念に出るのである。 魏晋南北朝時代になると,鏡の呪術的な能力が日常生活的な世界の中で強調されるようになり,それが神仙・道教思想とからみ合いつつ展開する。その呪術的な力の中心となるのは,妖怪変化の正体をあらわす能力である。…
…その基礎には,東洋の宗教の修行法や東洋医学の考え方がある。たとえば,禅やヨーガや道教などの瞑想(めいそう)法や修行法は,心の働きと身体の働きが一体になった〈心身一如〉の境地を理想として追求している。また東洋医学の考え方は宗教と関係が深い。…
… 魏晋南北朝はまた宗教の時代でもあった。周代以来の社稷・宗廟の祭祀とは質を異にする道教と仏教が人々の心をつかんだ。中国固有と外来の相違はあるが,個人の至福をねがう普遍宗教である点で両者は共通していた。…
…つまり,広義の護符は,個人的に用いられ,正当であると認められた,超自然的な力を形象化した物体である。 日本における狭い意味での護符は,神仏の名や像,経文,呪句などが書かれた紙片のことで,それらは仏教,道教,陰陽道の信仰によって正当性を得ている。しかし,それら以外でも,節分などに妖怪よけとして庭に掲げられた〈オニカゴ〉などと呼ばれる目の粗い籠や,死者の枕元に置かれる剃刀(かみそり)などの刃物も,季節の境や死といった特別な状況における護符の一種といえる。…
…中国,三元は本来,歳・日・時の始め(元は始の意)である正月1日を指したが,六朝末期には道教の祭日である上元・中元・下元を意味し,それぞれ正月・7月・10月の15日を指すようになった。天官・地官・水官のいわゆる三官(本来,天曹(てんそう)すなわち天上の役所を意味したが,しだいにいっさいの衆生とすべての諸神を支配する天上最高の神となる)がそれぞれの日,すべての人間の善悪・功過を調査し,それに基づいて応報したという。…
…中国文明の歴史は,南進の歴史といってよい。南船北馬,南人は軽薄,北人は素朴,南方は地主小作関係が多く,北方は自作農が多い,南方の士大夫は晩年は仏教にふけり,北方の士大夫は道教にふける,など南北を対比したいい方は無数にある。辛亥革命,人民革命の革命家がほとんど南方(とくに浙江,湖南,広東の3省)出身であったことはよく知られている。…
…他方,一般知識人の間でも仏教の信仰ないし理解が普及し,その勢いは官学である儒学を上まわるものがあった。 六朝時代はまた道教が民衆を中心として強力な宗教として成立した時期である。道教は漢代以前からあった神仙説を中核とし,これに古来の雑多な民間信仰を結合したものであり,その理想は長生不死にあった。…
…仏教 たまたま会昌の廃仏に際会して還俗させられた日本からの入唐僧円仁は,旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》のなかで,廃仏の実態を記録している。会昌の廃仏は仏教教団自体の腐敗堕落と国家財政上とに起因するとともに,さらには武宗の道教信仰による,道教教団側の策動が功を奏したからであった。道教は,始祖の老子(李)が唐の宗室と姓を同じくするところから,唐代を通じて大いに帝室に重んぜられた。…
…中国で,道教の経典を集成したものをいい,仏教の〈一切経〉〈大蔵経〉に相当する。現行の《道蔵》は明の《正統道蔵》と《万暦続蔵》とを合わせたもので,512函,5485巻ある。…
…その後も侵入はやまず,1570年(隆慶4)に至ってようやく和議が成立した。嘉靖帝はこの間,道教にこって国事を顧みず,首席大学士の厳嵩(げんすう)に政務をまかせきりにすること20年にわたった。厳嵩は帝の信任を背景として権勢をふるったが,その力はもっぱら蓄財に注がれ,政治上は目前を糊塗するに終始し,最後は弾劾を受けて罷免された(1562)。…
※「道教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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