日本歴史地名大系 「太田陣屋跡」の解説 太田陣屋跡おおたじんやあと 岐阜県:美濃加茂市太田村太田陣屋跡[現在地名]美濃加茂市太田本町五丁目尾張藩が天明元年(一七八一)より実施した所付代官制度のため設置した陣屋の一つ。「濃州徇行記」によれば、翌二年濃州郡奉行井田忠右衛門が太田代官に任命され、陣屋を取立てた。下町西側の付町光徳(こうとく)にあり役屋敷とも畑六反余、高六石四斗七升八合は証文引となった。天保五年(一八三四)当時の太田代官は定員一名、給米七五俵。ほかに手代六人・同心四人がいた。加茂・恵那・土岐・各務(かかみ)・武儀(むぎ)・可児(かに)の各郡で一三〇ヵ村高五万六千四〇七石余を支配した。 太田陣屋跡おおたじんやあと 神奈川県:横浜市中区太田村太田陣屋跡[現在地名]中区日ノ出町一―二丁目太田村の東端にあり、南を大岡(おおか)川が流れ、北は野毛(のげ)山。宝暦―安永(一七五一―八一)頃埋立てられた地に安政六年(一八五九)の横浜開港に先立ち、横浜付近の陸路警備に当たった越前福井藩が築いた陣屋(「勘定奉行掛合書」幕末外国関係文書)。また海岸防備にもあたり、本牧本郷(ほんもくほんごう)村の十二天(じゆうにてん)に砲台および遠見番所を設け、長崎の例にならって外国船の出入りを運上所に注進した。文久元年(一八六一)信濃松代藩と交替。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by