日本歴史地名大系 「太田村」の解説
太田村
おおたむら
- 茨城県:常陸太田市
- 太田村
里川の沖積低地と
中世には佐竹氏の居城があり、約四七〇年間佐竹氏の本拠地であった。佐竹文書によると天正一八年(一五九〇)には豊臣秀吉より「常陸国并下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文」が保証された。
太田村
おおたむら
- 宮崎県:宮崎市
- 太田村
大淀川を挟んで
太田村
おおたむら
〔中世〕
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 千葉県:旭市
- 太田村
現市域の中央東寄りに位置し、東は
元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に大田之郷とみえ、雅楽之助・平右衛門尉や
太田村
おおだむら
- 大阪府:茨木市
- 太田村
太田村
おおたむら
- 富山県:砺波市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
現沢内村の南部、奥羽山脈の山間を南流する和賀川両岸の河岸段丘上に集落と耕地がある。大田村とも書かれる。文和二年(一三五三)一一月三日の吉良貞家宛行状(鬼柳文書)に「和賀郡和賀越前権守行義跡伍分四内、(中略)小国村内賀木沢田在家」とみえる。
太田村
おおたむら
明治二三年(一八九〇)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した厚岸郡の村。
太田村
おおたむら
- 岩手県:花巻市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
富山湾に面し、南東は
太田村
おおたむら
貞光村の東、東流する吉野川の右岸(南岸)にあり、同川沿いに伊予街道が通る。東は
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 千葉県:佐倉市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 岐阜県:美濃加茂市
- 太田村
ヒトデ状に広がる太田盆地の中心、木曾川北岸の低位段丘上にある。太田湊は木曾川上筋四湊の一つ。中山道の渡場となり太田宿が置かれた。飛騨街道・関道も分岐する水陸交通の要地である。慶長郷帳によると、大田村は高一千九三九石余と山年貢米三石。元和元年(一六一五)幕府領から尾張藩領となる。正保郷帳では田方一千三一四石余・畑方六二四石余、山年貢は草野の分である。
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 群馬県:伊勢崎市
- 太田村
太田村
おおたむら
- 静岡県:袋井市
- 太田村
太田村
おおだむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおだむら
太田村
おおたむら
- 石川県:羽咋市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおだむら
太田村
おおたむら
- 三重県:亀山市
- 太田村
亀山城の北にあって、
近世初期の帰属は明らかでないが、寛永一三年(一六三六)以後は亀山藩領。翌一四年の内検地では田畑合せて六六町余、村高は八九八石余。
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 福島県:喜多方市
- 太田村
太田村
おおたむら
- 埼玉県:秩父市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおだむら
- 新潟県:見附市
- 太田村
太田村
おおたむら
明治初年から明治三五年(一九〇二)までの村。現大成町の北端に位置し、北は
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおだむら
- 千葉県:木更津市
- 太田村
請西村の北、
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 大阪府:八尾市
- 太田村
志紀郡に属し、
太田村
おおたむら
利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は
太田村
おおたむら
- 新潟県:五泉市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 静岡県:湖西市
- 太田村
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
- 京都府:亀岡市
- 太田村
太田山の南麓にあり、西は
中世は
太田村
おおたむら
- 大阪府:八尾市
- 太田村
志紀郡太田村の西に位置し、丹北郡に属した。丹北太田と略す。大和川の付替えで村の南部が潰地となった。付替え後は新大和川の北にあたる。当村の田畑は志紀郡太田村田畑の西に位置するが、村人の居屋敷は志紀郡太田村の屋敷地と入組みになっている。京都
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
ただむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおだむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
太田村
おおたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報