太田村
おおたむら
[現在地名]常陸太田市宮本町・中城町・栄町・東一町・東二町・東三町・金井町・塙町・木崎一町・木崎二町・内堀町・山下町・西一町・西二町・西三町・寿町
里川の沖積低地と源氏川の谷に挟まれた鯨ヶ岡と俗称される台地上に位置し、水戸と棚倉(現福島県)間の宿駅であった。南は源氏川を境に磯部村、東は西宮村・三才村。「常陸国風土記」の久慈郡に「郡の東七里、太田の郷」とみえ、「和名抄」久慈郡に大田郷がある。弘安大田文の佐都西郡に「大田白岩八十丁三段小」と記される。また文和四年(一三五五)二月一日の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)の嫡子義宣に与えた所領のうちに「常陸国佐都西郡太田郷」とある。寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「大田村」と記され、元禄郷帳に「太田村」とある。
中世には佐竹氏の居城があり、約四七〇年間佐竹氏の本拠地であった。佐竹文書によると天正一八年(一五九〇)には豊臣秀吉より「常陸国并下野国之内所々、当知行分弐拾壱万六千七百五拾八貫文」が保証された。
太田村
おおたむら
[現在地名]宮崎市太田一―四丁目・中村西一―三丁目・中村東一―三丁目・谷川一―三丁目・淀川一―三丁目・大淀一―四丁目・東大淀一丁目・天満一―三丁目・福島町・京塚一―二丁目・南町・江南一―四丁目・京塚町・天満町・谷川町など
大淀川を挟んで上別府村の南に位置する。宮崎郡に属し、南西は古城村、南東は那珂郡恒久村。飫肥街道が通る。街道沿いには中村町があり、上別府村への大淀川の渡場があった。同町の北西には福島町があった。建久図田帳に八条女院領国富庄の一円庄のうちとして大田一〇〇町とみえ、中世は国富庄に含まれた。天正一六年(一五八八)八月四日の日向国知行方目録には太田八〇町とあり、高橋元種領となっている。領主の変遷は寛保二年(一七四二)まで上別府村と同じ。同年から幕末まで延岡藩領であった(延享三年「延岡藩領知目録写」牧野家文書など)。延岡藩太田組四ヵ村の一つで、同組大庄屋が当村にいた(「宮崎役所万覚」内藤家文書)。寛永一一年(一六三四)の指出(国乗遺聞)では高一千六七五石余。万治四年(一六六一)の延岡藩村高内検高覚では内検高二千七八六石余。元禄国絵図では高三千一四七石余。延享四年(一七四七)の太田組年貢割付帳写(内藤家文書)では高三千九八石余のうち分郷古城村を除いた高一千九一七石余。諸品控日記帳(渡辺家文書)によると安政四年(一八五七)の高一千九一七石余・毛付高一千六四四石余、うち田高一千四二四石余(反別九九町二反余)・畑高一六二石余で、ほかに新田畑高四四石余(古城村を含む)と中村町地子畑高・福島町地子畑高がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]津幡町太田
南中条村の南に位置し、集落は北陸街道に沿い紡錘形をなす。仮名付帳や「圭邑名林」は「おおた」と読むが、「三州地理雑誌」は「よした」と訓じている。
〔中世〕
井家庄の内。正和元年(一三一二)頃の加賀白山本宮の水引神人沙汰進分注文案(三宮古記)に「津幡村紺一端 大田ヨリ北賀茂畷マテ」「森下村紺二端 大田ヨリ南浅野河」とみえる。白山本宮の水引神人となった紺掻業者の勧進区域(営業圏か)のうち、津幡村と森下村(現金沢市)の神人の境界であった。冷泉為広の「越後下向日記」によれば、延徳三年(一四九一)三月一二日、細川政元に同行した為広は米泉(現金沢市)を発ち、「オホタ」を経て竹橋に至っている。享禄の錯乱でいったん越中・能登に逃れた賀州三ヵ寺派が、能登畠山氏や越中の遊佐氏・神保氏の援助を得て、失地回復のため享禄四年(一五三一)一〇月当地に着陣したが、同年一一月二日「大田合戦」に大敗して撤退した(白山宮荘厳講中記録)。「天文日記」天文八年(一五三九)一一月二一日条によれば、亀田九郎左衛門・岩原正順が二条家「御領中大田村封戸」を不当に沽却し、本願寺証如に訴えられている。同地は元来森下から馬を入れ、草刈場として利用されていたらしく、同六年二条家が領有を主張した井家庄領家職半分のうちに含まれた。同書同六年七月一八日条にみえる「河北二番旗本亀田隼人」は前出亀田九郎左衛門の一族であろう。
太田村
おおたむら
[現在地名]新旭町太田
安曇川下流左岸にあり、北は藁園村、南東は北船木村(現安曇川町)。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に太田とあり、高一千六四五石余。寛永石高帳に高二千二九二石余とあり、幕府領九〇〇石余・膳所藩領五九九石余・大溝藩領三三九石余・旗本蜂谷栄包領九六石余・同蜂谷栄正領九六石余・旗本比留領一三〇石余とある。しかしこの時点で比留領は正永と弟信次に二分されているので、もう一人の比留信次領一三〇石余が脱落していると思われる。慶安高辻帳では幕府領・膳所藩領・大溝藩領・蜂谷二氏・比留二氏の七つに分けて記されるが、その合計の田方一千九〇二石余・畑方一一六石余・永荒二七三石余。幕府領は慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領、宝永四年(一七〇七)幕府領、享保九年(一七二四)大和郡山藩領となる。蜂谷栄正家は享保一六年断絶し、領地は幕府領となり、その後武蔵川越藩領となる。膳所藩領の一部一八〇石余と比留二氏の二六〇石余もその後川越藩領となる。天保八年郷帳では川越藩領五三四石余・郡山藩領九〇〇石余・膳所藩領四一八石余・大溝藩領三四一石余・蜂谷領九六石余。享保九年大和郡山領郷鑑によれば、郡山藩領の高九〇〇石余・反別六六町六反余、家数八四(うち本百姓八三・水呑一)・人数四六一、そのほか医師一・大工一・紺屋一・酒屋(一六石)一・商人二がおり、枝郷として蒲生がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]旭市ニ
現市域の中央東寄りに位置し、東は網戸村、南は十日市場村。銚子道が通り、多古(現多古町)、小見川(現小見川町)、野尻・銚子・飯沼(現銚子市)、横芝(現横芝町)などの各町村への継立場で、史料上は太田町ともみえる(文政二年「伊勢参詣路用借用証文」秋庭家文書)。中世は匝瑳南条庄に属したとみられ、千葉大系図では飯倉系椎名氏の一流として椎名行胤の子太田又太郎胤貞がみえる。野中長禅寺の永禄一二年(一五六九)九月の愛染明王坐像胎内墨書銘に「脇細工 太田西福坊・同専光坊」、同寺殿舎の番匠衆中に「大公 太田清衛門」とある。現銚子市常世田常灯寺蔵の大般若波羅蜜多経巻三五八奥書によれば、天正四年(一五七六)太田幸蔵寺の隠居済鑑が常灯寺に参籠し経典を書写している。同一一年幸蔵寺道場で済鑑が弟子の宥盛に秘密許可初重印信を伝授している(「印信紹文」石橋家文書)。
元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)に大田之郷とみえ、雅楽之助・平右衛門尉や遍照院・照学院・地蔵院などにより二六本が植えられていた。
太田村
おおだむら
[現在地名]茨木市太田一―三丁目・太田東芝町・東太田一―四丁目・花園一―二丁目・城の前町・高田町・西太田町・十日市町・三島丘一―二丁目
耳原村の東、島下郡の中央東端にあり、東は島上郡土室村(現高槻市)。村の西を安威川が流れ、中央部を西国街道が横断。古くは「大田」と表記。「新撰姓氏録」(摂津国神別)に、天児屋根命一三世の孫の御身宿禰の後裔とある中臣大田連本貫の地といわれ、継体天皇三島藍野陵という茶臼山古墳、延喜式内社に比定される太田神社、飛鳥時代の太田廃寺跡がある。「播磨国風土記」揖保郡大田里の項に「摂津国三島賀美郡大田村」がみえ、三島賀美郡にあたる島上郡には大田の村名がなく、当村との関係も考えられる。中世には造酒司領大田保が設けられた。また幕府御家人で摂津源氏の流れをくむという太田太郎頼基(「平家物語」巻一二判官都落ち)の居城があったと伝え、城の崎・城の前などの関係小字が残る(大阪府全志)。南北朝期には西国街道の宿所であったとみられ、応安四年(一三七一)有馬温泉(現神戸市北区)へ出かけた京都八坂神社社家顕詮は、下向途中の九月二〇日、大田宿北側の「的屋」で一泊している(八坂神社記録)。
太田村
おおたむら
[現在地名]砺波市太田
久泉村・柳瀬村の南にあり、東は庄川を挟んで安川村と対する。近世初頭に庄川が村の東へ移ったため人家は中央部へ移動し、また時には西の千保川(旧庄川跡)筋に庄川が流入する危険があったために居住地としては適さなかった。そのため住居は村中央に集中しており、礪波散村地帯としては特異な集村状を呈する。中世には般若野庄の一部で、その南西端に位置したとみられる。近世初頭に十村を勤めた当地金子文書の天正一七年(一五八九)三月一三日のよこ町与一代銭請取状に「おふ田そう衛門」とある。また文禄二年(一五九三)二月二日の山地子銭皆済状では「般若野ノ内」と肩書して太田村とある。村名の由来は、毎年伊勢へ初穂米を献じたので皇太神宮の太と田を合せて太田としたという。大田と記す史料もある(元和五年家高新帳など)。伊勢御師の回村は正徳二年(一七一二)の礪波郡社号帳(川合家文書)にもみられるが、後世の付会であろう。文禄三年には野開一段の物成は四斗と定められ(「新開地年貢割付状」金子文書)、慶長二年(一五九七)の検地では高一千四一五俵三斗となり、同年の物成は一六〇俵(「年貢割付状」同文書)。
太田村
おおたむら
[現在地名]南区庚台・三春台・清水ヶ丘・西中町一―四丁目・南太田町一―四丁目・白金町一―二丁目・前里町一―四丁目・伏見町、中区赤門町一丁目・黄金町一―二丁目・初音町一―三丁目・英町・日ノ出町一―二丁目、西区赤門町二丁目・東ヶ丘・霞ヶ丘・境之谷
久良岐郡の西端、橘樹郡との境にある。東南は大岡川を隔てて吉田新田村、南も同川を隔てて蒔田村、西南は井土ヶ谷村、西は永田村、北西は橘樹郡保土ヶ谷宿(現保土ヶ谷区)、北は戸部村(現西区など)に接する。文禄三年(一五九四)七月武州久良岐郡太田之郷御縄打水帳(横浜開港資料館蔵)がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]沢内村太田
現沢内村の南部、奥羽山脈の山間を南流する和賀川両岸の河岸段丘上に集落と耕地がある。大田村とも書かれる。文和二年(一三五三)一一月三日の吉良貞家宛行状(鬼柳文書)に「和賀郡和賀越前権守行義跡伍分四内、(中略)小国村内賀木沢田在家」とみえる。小国村賀木沢は当地鍵沢に比定されている(北上市史)。和賀(煤孫)行義が領していた田在家が闕所とされ、勲功の賞として北朝方の和賀義勝に宛行われた。永禄年中(一五五八―七〇)には当地を太田氏が領していたが、沢内の太田主膳が和賀薩摩守の命に背き糺弾されている(「由緒」伊藤文書)。天正二年(一五七四)七月の紀年銘のある石塔婆(現在亡失)に、「供養導師□泉寺法印養正坊 施主太田縫殿 鍵沢主膳」とみえ、当地の有力者として太田氏・鍵沢氏が知られる。同一八年豊臣秀吉の奥羽仕置により和賀氏は没落したが、太田氏は南部氏に出仕し、同一九年の九戸政実の乱に太田民部・同伊右衛門が南部方として参戦(南部根元記)、また慶長五年(一六〇〇)の和賀稗貫一揆には太田民部が南部利直に従軍している(和賀一揆由来)。
太田村
おおたむら
[現在地名]厚岸郡厚岸町太田・太田北・太田広陽・太田西・太田東・太田南・大字太田村・字宮園町、川上郡標茶町字上チャンベツ・字上チャンベツ原野・字下チャンベツ・字チャンベツ・字チャンベツ原野・字チャンベツ原野基線・字中チャンベツ・字中チャンベツ原野・字中チャンベツ原野基線・字雷別
明治二三年(一八九〇)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した厚岸郡の村。別寒辺牛川・チャンベツ川・大別川・尾幌川流域にかけての広い地域を占める。明治二三年六月に開かれた屯田兵村を中核とする。村名は屯田用地の撰定に功績のあったアイヌ太田紋助にちなむ。屯田兵根室第四大隊第三中隊二二〇戸は南太田村、同第四中隊二二〇戸は北太田村と称された。屯田兵居住地の南東には市街地が形成され、同所には同年七月太田村戸長役場が置かれた(太田村誌)。
太田村
おおたむら
[現在地名]花巻市太田
湯口村・西晴山村・上根子村の南、南東流する豊沢川の右岸に位置し、南は横志田村・轟木村。地内泉畑の比高六メートルの段丘上に中世の根子館(上館)跡があり、館主は稗貫氏の臣根子氏と伝える(「稗貫郡旧記」内史略など)。慶長八年(一六〇三)頃、当地を含む稗貫・和賀両郡の二〇所八千石が北松斎信愛に宛行われており(年未詳「南部利直知行宛行状」宝翰類聚)、同一五年の同人宛南部利直黒印状(盛岡北文書)に太田村一千二一〇石余とある。寛永六年(一六二九)の南部利直知行宛行状(宝翰類聚)によれば当村のうちで一〇〇石が鹿討金千世に与えられている。
太田村
おおたむら
[現在地名]太田町太田
斉内川の扇状地にあり、東は大台山(八一四・二メートル)、西に仙北平野が開ける。
古館に古城跡があり、「奥羽永慶軍記」によれば、天正一五年(一五八七)頃小野寺氏と六郷氏が合戦に及んだ記事に太田の名がある。この太田氏の居館と伝え、新庄古老覚書によれば、天正一八年豊臣秀吉の命により破却された戸沢氏配下の城に太田がある。菅江真澄は「月の出羽路」に「古城跡あり、土堤の内東西卅五間、南北五一間也といへり」と記し、絵を書き残した。
太田村
おおたむら
[現在地名]高岡市太田
富山湾に面し、南東は国分村・一宮村、北西は島尾村(現氷見市)。浜畑・水田が西方に広がる。正保郷帳では高一千四二二石余、田方六三町二反余・畑方三一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では片山方・浦方として、草高一千六三〇石・免五ツ三歩、小物成は山役二七六匁・蝋役四匁、網役一九五匁九分(ほか二貫六三六匁余退転)がある(三箇国高物成帳)。貞享四年(一六八七)二八五石の検地引高があり、一方当村領として延宝七年(一六七九)一〇石余、元禄一五年(一七〇二)二五石余、宝永元年(一七〇四)一二〇石の新開がある(「高免等書上帳」折橋家文書)。
太田村
おおたむら
[現在地名]貞光町太田
貞光村の東、東流する吉野川の右岸(南岸)にあり、同川沿いに伊予街道が通る。東は小島村(現穴吹町)、南は東端山、北は吉野川を隔てて郡里村(現美馬町)。大田とも書く。地内の熊野十二所神社には「阿州大田 権現灯籠 大檀那 沙弥義浄 源信嗣 大願主金剛仏子□海」との線刻がある永徳二年(一三八二)銘の鉄釣灯籠(県指定文化財)が残る。慶長二年(一五九七)の分限帳では稲田小八郎(示稙)の知行のうちに太田村高三〇九石余と太田山高四〇石の二筆がみえる。正保国絵図では太田村の一筆で高三五一石余。明暦二年(一六五六)の棟付帳(貞光町史)では高三九三石余、家数一〇六・人数二九一、牛一一八・馬二三。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では大田村とみえ、田高四〇石余・畠畑高三一〇石余、旱損、芝山の注記がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]玖珠町太田
綾垣村の北方に位置し、太田川が南流する。東に角埋山がある。慶長六年(一六〇一)の森藩領知目録(佐伯藩政史料)に大田村とあり、高六二五石余。慶長豊後国絵図でも同高。正保郷帳に村名がみえ、田高二八二石余・畑高一九六石余で、古後郷に属し、柴山・茅山有、日損所と記す。元禄郷帳では高二七八石余。同帳によれば枝郷は内匠村・鳥屋村・川底村・小清原村・志津利村があり、うち天保郷帳では五村とも太田村の内であるが、小清原村は明治六年(一八七三)四日市村に編入される。内匠村は太田本村の北東にあり、正保郷帳では田高三五石余・畑高六石余、元禄郷帳では七九石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]佐倉市太田・山王二丁目
鹿島川右岸の台地縁辺部に位置し、北は寺崎村、東は六崎村。かつては大和田村とよばれた。応永一七年(一四一〇)の香取造営料足納帳(静嘉堂文庫)によると、円城寺能登守が大和田に所領を有したが、この大和田は当地に比定される。「寛文朱印留」に大和田村とみえ、佐倉藩領。以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では太田村として高四六七石余、古くは大和田村と注記がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]矢巾町太田
白沢村の南、五内川流域の平坦地に位置し、東は中島村・陣ヶ岡村(現紫波町)、南は下松本村・宮手村(現同上)、西は室岡村など。大田とも記された。正保国絵図に村名がみえ、高一三九石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高八五八石余、七ヵ年平均の免四ツ。元禄十郡郷帳による〆高は、田方七八七石余・畑方五八石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]美濃加茂市太田本町一―五丁目・深田町一丁目・加茂川町一―三丁目・草笛町一―四丁目・山手町一―三丁目・西町一―八丁目・前平町一―三丁目・太田町
ヒトデ状に広がる太田盆地の中心、木曾川北岸の低位段丘上にある。太田湊は木曾川上筋四湊の一つ。中山道の渡場となり太田宿が置かれた。飛騨街道・関道も分岐する水陸交通の要地である。慶長郷帳によると、大田村は高一千九三九石余と山年貢米三石。元和元年(一六一五)幕府領から尾張藩領となる。正保郷帳では田方一千三一四石余・畑方六二四石余、山年貢は草野の分である。
太田村
おおたむら
[現在地名]高松市太田上町・太田下町
北は万蔵村・伏石村に隣接する。城下からの仏生山街道が通る。古代香川郡大田郷(和名抄)の遺称地。嘉元四年(一三〇六)の昭慶門院領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国公領分に「太田郷 廊御方」とみえ、廊方(亀山院皇子兼良親王母三条局か)の知行。永享九年(一四三七)一一月一八日の日付をもつ岡山県備前市妙圀寺蔵鰐口銘文に「香東郡大田郷松直権現若一王子」とあり、松縄村一帯も含んでいた。寛永国絵図に大田郷とみえ、ほかに松縄・立石・伏石を含む大田郷の高は一千七三九石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]二宮町長沼
古山村の北西、鬼怒川左岸の自然堤防上にあり、北は堀込村など。大田とも記した。天文九年(一五四〇)と推定される二月二七日の程緻宛行状(写、小田部庄右衛門氏所蔵文書)で「長沼大田郷」の年貢二〇貫文などが赤埴信濃守に与えられた。慶安郷帳に村名がみえ、田高六一六石余・畑高六九二石余、幕府領と旗本松浦・駒井・大草領の四給、ほかに宗光寺領五〇石・八幡宮領一〇石。元禄郷帳では高一千三一六石余、前出寺社領を除き旗本大草・依田・駒井・今福領の四給。
太田村
おおたむら
[現在地名]有川町太田郷・阿瀬津郷
江之浜村の南西、有川村の南東に位置し、西部に飯盛山がある。南東部は相崎瀬戸に続く海域に臨み、沖に相ノ島がある。中世には太田氏の所領であったとされる(五島物語)。相ノ島は文禄元年(一五九二)豊臣秀吉の名護屋城(現佐賀県鎮西町)築城に際して竹を伐り出したことから竹島と称していたという。江戸時代は福江藩領で、東島掛に属する。
太田村
おおたむら
[現在地名]中区赤門町一丁目・黄金町一―二丁目・初音町一―三丁目・英町・日ノ出町一―二丁目、西区赤門町二丁目・東ヶ丘・霞ヶ丘・境之谷、南区庚台・三春台・清水ヶ丘・西中町一―四丁目・南太田町一―四丁目・白金町一―二丁目・前里町一―四丁目・伏見町
大岡川を隔てて東南は吉田新田村、南は蒔田村(現南区)、北は戸部村に接する。
太田村
おおたむら
[現在地名]伊勢崎市太田町
広瀬川両岸にある。東は伊勢崎町、西は安堀村、南の広瀬川右岸に三家の集落があり、那波郡連取村と接する。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方一六一石余・畑方一四八石余、前橋藩領・旗本藤川領の二給。元禄郷帳では太田村と宮下村に分けて記す。太田村の高二〇九石余、伊勢崎藩領・旗本藤川領の二給。宮下村の高一〇〇石、伊勢崎藩領。宮下村の村名の由来は「伊勢崎風土記」に地内に五郎宮(現五郎神社)が鎮座したことによるとある。
太田村
おおたむら
[現在地名]袋井市太田
豊田郡に所属。太田川中流域に位置し、南は延久村。古くは薦ヶ脇と称したという(「遠江国風土記伝」など)。永禄一一年(一五六八)一二月二八日の徳川家康判物(久野文書)に「山名庄之内井領」として「こもかわき」とみえ、家康は同所ほかを久野城主久野宗能の息千菊に与えている。正保郷帳に薦ヶ脇村とみえ、掛塚藩領、田方三九一石余・畑方六一石余。寛文四年(一六六四)の加々爪直澄領知目録(寛文朱印留)には太田村とみえ、掛塚藩領。天和元年(一六八一)幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本秋元領となり、幕末に至る(袋井市史)。
太田村
おおだむら
[現在地名]和歌山市太田・美園町五丁目
名草郡に属し、黒田村の南にある。村内を東西に通る道を境に北太田と南太田に分れる。
古代大田郷(和名抄)、中世日前宮領大田郷の地で、永仁三年(一二九五)三月二三日付大田郷検田取帳並検畠取帳(紀家蔵)によると、田地七四町六段四〇歩、うち畠成地は約五町あり、坪名のノノイトノ道ヨリ西・クスミノフン田・禅行池北・禅行池西・南アラウチ・牛渡・北アラウチ・ツフラタは大半が畠成地。
太田村
おおたむら
[現在地名]西区東ヶ丘・赤門町二丁目・霞ヶ丘・境之谷、南区庚台・三春台・清水ヶ丘・西中町一―四丁目・南太田町一―四丁目・白金町一―二丁目・前里町一―四丁目・伏見町、中区赤門町一丁目・黄金町一―二丁目・初音町一―三丁目・英町・日ノ出町一―二丁目
東南から南は大岡川を隔てて吉田新田村(現中区)・蒔田村(現南区)に接する。
太田村
おおたむら
[現在地名]桜井市大字太田
草川村南方に所在。「日本書紀」敏達天皇訳語田幸玉宮跡伝承地(磯城郡誌)。同書敏達天皇六年二月条に「日祀部を置く」という記事がある。日祀(日下)部は日置部の義か。日下は「日の下の草香」の枕詞から得た義訓。万葉歌人にも「他田日奉部直徳太理」の名がみえる。太田は他田(「ただ」とも)の転か(大和志)。平安時代、他田(戒重村付近)の荘名がみえる(東大寺文書)。
太田村
おおたむら
[現在地名]築館町 太田井守沢・同小清水・同川下田・同中太田・同熊狩・同東沢・同小清水下・同上太田・同下太田・横須賀山口など
内沼の南西一帯に立地し、北西は八沢村、南は藤沢村(現瀬峰町)と接する。正保郷帳に大田村とあり、田三一貫一六三文・畑四貫一六三文で、水損・旱損と注される。ほかに新田三七六文。「安永風土記」によれば田五五貫四五五文・畑五貫二七四文(茶畑二二五文)で、蔵入二八貫一九三文、ほかは給所。人頭四〇人のうち寛永一八年(一六四一)の検地時の竿答百姓一九人。家数四五、男一二二・女九九、馬四四。
太田村
おおだむら
[現在地名]旭町太田
矢作川の支流介木川に注ぐ太田川の水源に位置し、東は余平村・伯母沢村、南は押手村、西は大垣内村・源重村・明賀村、北は万町村に接する。集落は小起伏面上の山麓に点在。太田城跡が集落の北にそびえる標高六四〇メートルの山上にある。集落からの比高約六〇メートル。城ヶ平とよぶ。山頂に約一アールの平坦地と、西北に一段低くささやかな段地がある。大正一〇年(一九二一)の「旭村誌」は、源重城主神田右京亮の子孫太田へ移るとあるが不詳。
太田村
おおたむら
[現在地名]羽咋市太田町
石野町村の東、邑知潟南の低平地に立地。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に「大田富永庄」がみえ、元久元年(一二〇四)に立券され、田三町九段三であった。「尊卑分脈」には、鎮守府将軍藤原利仁六代の孫助忠の子為則が「太田大夫」と号し、その子章直が能州太田に住したとみえる。章直以下が羽咋郡の有力な武士団得田氏の通字「章」を用いていることなどから、為則流の本拠地は当地一帯に比定される。明応八年(一四九九)一二月二四日の畠山義元判物(気多神社文書)によると、能登守護畠山義元が気多社の社僧薬師院に「太田富永」のせんふ田と称する地三〇〇刈(須摩分)を安堵している。
太田村
おおたむら
[現在地名]安濃町太田
安濃川左岸の平地部にあり、内多村の東南にあたる。低丘陵の西側に集落があり、その中央部を美濃屋川が流れる。集落の北の水田下から発見された辻の内遺跡からは、縄文晩期の土器が出土し、弥生時代の竪穴住居跡もみられる。同遺跡の北にある北端遺跡にも弥生時代の竪穴住居跡が認められている。また地内に三ノ坪・五ノ坪という条里制に起因する地名が残る。
太田村
おおたむら
[現在地名]温泉津町井田大字太田
荻村の南、津淵村の西に位置する。山陰道が通る。大田とも記す。中世は大家庄西郷に含まれた。天文一二年(一五四三)九月六日の小笠原長実書下(林家文書)に「弐拾貫文 大田北」とみえ、横道助十郎に与えている。永禄二年(一五五九)九月六日の毛利元就・同隆元連署充行状写(石見吉川家文書)には「大田・下村」とみえ、大家庄西郷のうち福光美濃守領であった大田・下村六〇貫(ただし同年月日「吉川元春安堵状写」同文書には七〇貫とみえる)が吉川経安に与えられている。
太田村
おおだむら
[現在地名]菊鹿町太田
木野川と内田川に挟まれた谷に囲まれた丘陵地にあり、東は五郎丸村・上永野村、西は長谷川村・長谷村、南は下永野村・下内田村、北は上内田村と接する。年未詳の五条氏所領注文(五条家文書)に「肥後国山鹿郡之内 大田 八町」とある。近世は山鹿郡中村手永に属したが、宝暦二年(一七五二)の中村手永御蔵納手鑑によると、上内田村の枝村の一つが独立し太田村となったとあり、元禄国絵図には村名がなく、明和九年(一七七二)の「国誌」には、独立村として記載されていることなどから、独立は元禄一四年(一七〇一)から宝暦二年の間と思われる。
太田村
おおたむら
[現在地名]亀山市太森町
亀山城の北にあって、安楽川を挟んで川崎村の南に位置し、村の南西部は丘陵をなす。平安時代には大田庄の名がみえ、「大乗理趣六波羅蜜経第一」(東京大学史料編纂所蔵)の奥書に「永保三年七月十日伊勢国鈴鹿郡大田御庄移点了、奉持沙門(梵字)本生龍徳房云々」とあるが、荘園の実態および比定地は明らかでない。南北朝期以後は関五家の一である峯氏の勢力下にあったと思われ、天正一二年(一五八四)豊臣秀吉が峯・亀山、国府(現鈴鹿市)の各城を攻めたときには、その本陣が置かれたという(五鈴遺響)。
近世初期の帰属は明らかでないが、寛永一三年(一六三六)以後は亀山藩領。翌一四年の内検地では田畑合せて六六町余、村高は八九八石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]野津原町太田 太田など
矢野原村の西にあり、七瀬川の支流太田川流域を占める。「肥後国誌」は当村を矢野原村のうちとし高一八四石余、白木林村・中野屋舗村・下ヶ畑村などの小村を記す。「豊後国志」も矢野原村の枝郷とする。天保二年(一八三一)の「野津原手永略鑑」によると惣高一八五石余、うち本方一八四石余、免は五ツ余。寛政一〇年(一七九八)の水掛りは鑰小野井手一四町三反余・提子井手二反余(挟間町誌)。文化七年(一八一〇)二月二六日伊能忠敬が測量した(伊能忠敬測量日記)。明治八年(一八七五)今畑村と合併して太田村となる。北東部に繁美城跡がある。築城の時期は不明だが天正一四、五年(一五八六、八七)の豊薩合戦で焼失・落城した(佐藤氏系図)。
太田村
おおたむら
[現在地名]喜多方市豊川町高堂太
堂畑村の南にあり、東は姥堂川を隔てて宮目村(現塩川町)、南は同川を隔てて下利根川村(現同上)など。村の南、姥堂川北岸館内・腰巻に中世の館跡があり、天正年間(一五七三―九二)蓮沼備中某が住したと伝える(新編会津風土記)。同館跡には土師器・須恵器が散布し、古代集落の所在が推定される。また同所にあった永仁五年(一二九七)三月一一日年紀の板碑には「右趣意者 為藤原朝臣也」の銘が刻される。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録には「大田」とあり、高六〇四石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]秩父市太田
伊古田村の北に位置し、北東は堀切村、南は品沢村など。北は西流する赤平川を境に野巻村(現皆野町)、南西は同川を隔てて久長村(現吉田町)など。地内には縄文時代中期、古墳時代後期、奈良・平安時代の集落跡がある。また太田条里遺跡があり、秩父郡丹田郷(和名抄)を当地に比定する説もある。地名の起りは一円に田が多く、多田の意(秩父志)、郡中では田の多いところであるから(増補秩父風土記)などとされる。
太田村
おおたむら
[現在地名]藤岡町太田
三毳山南東麓の台地上にあり、西は蓮花川を挟み大田和村、南は只木村、東は羽抜村(現岩舟町)、北は安蘇郡下津原村(現同上)。古くは当地一帯を佐野郷府原といったという。慶安郷帳では田一三五石余・畑六一石余、下総古河藩領。宝永三年(一七〇六)旗本金森領となり、延享三年(一七四六)下総佐倉藩領(一四四石余)と金森領(二四八石余)の二給となり幕末に至る(旧高旧領取調帳)。天保年間(一八三〇―四四)の家数五六(改革組合村)。明治七年(一八七四)の家数七三・人数三二八(栃木県史料)。
太田村
おおたむら
[現在地名]江津市松川町太田
那賀郡のうち、江川下流部右岸、西は渡津村、東は八神村、南は江川を隔てて千金村・田野村。正保国絵図に大田村とみえ、高一〇二石余。元禄一〇年(一六九七)の石見銀山領村々覚によれば田方八三石余・畑方一八石余、年貢高は米四二石余・銀一六一匁余、家数本家四・門屋一四、人数七四、馬一・牛三、鉄砲一挺・威鉄砲一挺があり、小物成として川網役銀一匁がみえる。
太田村
おおだむら
[現在地名]見附市太田町
本尊村の南東、集落は稚児清水川左岸の段丘上にある。文明年間(一四六九―八七)の長尾・飯沼氏等知行検地帳(上杉家文書)に高波保の「太田」がみえる。永禄三年(一五六〇)一〇月吉日の貫屋家兼売券案(来田文書)に「大田」とみえ、当地に伊勢御師の檀那が所在したとみられる。元和六年(一六二〇)の長岡藩知行目録に「大田村」高二七三石九斗余。正保国絵図に「大田村」と記し、長岡藩領。正保二年(一六四五)の検地帳(明治大学刑事博物館蔵)では田一三町九反・畑一九町六反余、名請人四五。
太田村
おおたむら
[現在地名]久遠郡大成町字太田
明治初年から明治三五年(一九〇二)までの村。現大成町の北端に位置し、北は尾花岬を境に鵜泊村(現北檜山町)、南は帆越岬を境に上古丹村。中間の砥歌川河口は船泊りの澗であったが、後背は毛無山・天狗岳・太田山・相泊山などが屏立し、平坦地は少ない。村はヲヲタ場所(近世後期にはクドウ場所に包含された)の中心地ヲヲタを包含して成立。一八三四年(天保五年)江差より神野彦右衛門が移住して烏賊・鰊・鮑漁を始め、五七年(安政四年)瀬棚(現瀬棚町)より丸谷定右衛門が移住、六〇年代前半には四戸にすぎなかったが、その後各地より移住が増加、明治二年頃より村落の形をなしたという(状況報文)。
太田村
おおたむら
[現在地名]筑波町北太田
桜川東岸に所在。東は小田村。小田城主小田氏の家臣の土着あるいは佐竹氏入部に伴う被官層の土着によって立村されたなどの所伝があり、江戸初期は小田村に含まれていた。慶長七年(一六〇二)の常陸国小田之内太田村長せ川七左衛門殿御縄打之高(関賢文書)によれば村内三九〇・六〇七石、田畑四〇町六反一畝一九歩で天領。慶安二年(一六四九)土浦藩領となった時に村切が行われ、独立村となった。
太田村
おおたむら
[現在地名]八千代町太田
北の若沼跡(現在は水田)と南の太田沼跡(同)に挟まれ、西から東に細長く延びた台地上に位置。北は沼森村。西部には太田城跡の掻揚げが残り、太田城ゆかりの竜昌院が建ち、小字に中城・東門・出口など太田城にちなむものが残る。
天正一五年(一五八七)下妻城主多賀谷重経は当地に太田城を築き赤松常範を配した。同一八年には長子三経を豊田城(現石下町)より太田城に移し、岡田・豊田二郡、下猿島の地を割き与え、結城家に出仕させている。この時豊田の竜心寺が太田城に勧請されて竜昌院となった。
太田村
おおたむら
[現在地名]上川村豊川 太田
常浪川と柴倉川の合流点の南に位置する。村東の高徳寺が所蔵する鰐口の銘の帯右に「太田今羽黒全」、帯左に康永四年(一三四五)八月一五日とある。「新編会津風土記」によれば、この鰐口は当村の羽黒神社に納められていた。長享二年(一四八八)三月の蘆名盛高の袖判がある安堵状(会津若松史)には奥州会津小川庄大田村とみえる。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「大田 弐百七十九石六升」とある。元和六年(一六二〇)の漆木役は一千七六九本(津川旧記)。貞享二年(一六八五)の地下風俗家業旧例改帳(玉木敏雄氏蔵)によれば雑紙役二束とあり、塩荷造用の俵を編んで生計の足しにした。
太田村
おおだむら
[現在地名]木更津市太田一―四丁目・東太田一―四丁目・請西一―四丁目・大和三丁目・清見台二―三丁目・清見台東二丁目・清見台南一―五丁目
請西村の北、矢那川右岸に位置する。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に大田村とみえ、高六九石。正保国絵図には太田村とあり、高三〇〇石。元禄郷帳では高三五六石余。元禄一四年(一七〇一)本多正永領となり(本多四公日記)、寛政五年(一七九三)の上総国村高帳、文化(一八〇四―一八)末年の上総望陀郡石高帳(慶応大学蔵)ともに高三四九石余で家数三九、旗本大久保領。
太田村
おおたむら
[現在地名]富江町長峰郷
琴石村の西に位置し、南は海に面する。遣唐使船や宋貿易船の航路にあたる。平家の落人が逃れて当地に住んだという伝承がある。永禄六年(一五六三)宇久氏の一族太田玄重が太田や琴石を所領として居住し、太田氏を称したという。玄重は平戸を攻めたが、敗死。その子玄定は文禄の役に出陣して朝鮮半島で没したという。十城別神社の境内にこの父子を祀る石祠がある。
太田村
おおたむら
[現在地名]八尾市太田一―九丁目・太田
志紀郡に属し、田井中村・南木本村の南、新大和川の右岸(北側)に位置する。大和川の付替え前の状況でいえば、羽曳野丘陵の先端が延びて、ほとんど平地になったところといえる。当村の田畑の西に丹北郡太田村の田畑があるが、村民の居屋敷は両村入組みになっている。地名は「蔭涼軒日録」明応二年(一四九三)三月二日条に、正覚寺合戦における「河州御方諸軍勢書立」を記して、「一、大田、みやけ、勢数五百」とみえる。
太田村
おおたむら
[現在地名]妻沼町永井太田
利根川右岸の自然堤防上に位置し、東は飯塚村・男沼村、北は間々田村。村の中央部を備前渠用水が東流し、用水はこれを利用する(風土記稿)。田園簿によると田方五二八石余・畑方八八三石余、旗本松崎・三枝・伊奈の三家の相給。国立史料館本元禄郷帳では旗本三枝・松崎の二家の相給、ほかに能護寺領・阿弥陀寺領がある。「風土記稿」成立時と幕末の改革組合取調書では旗本三枝・松崎・長山の三家の相給。寛政元年(一七八九)から文政九年(一八二六)にかけての下奈良村吉田市右衛門家諸事纂控(吉田家文書)に「長井太田村能護寺」とあるように、長井太田(永井太田)の呼称もみられ、明治二年(一八六九)永井太田村を正式名称とした(郡村誌)。
太田村
おおたむら
[現在地名]五泉市太田一―二丁目・東本町二丁目・郷屋川二丁目・旭町・太田
早出川の支流伊勢の川左岸に位置し、東は赤海村、西は吉沢村に接する。慶長一九年(一六一四)の村上領高附並組々村覚(寛政六年写、五泉郷土史)では三本木組に属し、元和五年(一六一九)の菅名下条せき普請可仕村々覚(伊藤家文書)にも村名がある。正保国絵図に二七〇石余、貞享元年(一六八四)の郷村高辻帳には高一六四石余とある。宝永七年(一七一〇)幕府領、天保元年(一八三〇)沼津藩領となり、同九年の五泉領巡見記(五泉郷土史)には高三〇七石二斗余(田高一七二石九斗余・畑高一三四石三斗余)、家数四五・人数二六五、女馬三とある。
太田村
おおたむら
[現在地名]新利根村下太田
新利根・小野両河川に挟まれた台地の南にあり、東は堀川村。中世は東条庄に属し、常陸大掾平直幹を祖とする東条氏が当地に城を築いて支配したといわれ(常陸大掾伝記)、東条城跡が村中央の高台にある。天文一一年(一五四二)頃に東条氏は江戸崎城(現江戸崎町)城主土岐治頼によって滅ぼされた(土岐原史記)。慶長一一年(一六〇六)仙台藩領となり、同年三月三日の常州伊達氏領地知行目録(伊達家文書)に「六百拾四石八升九合 小野太田」とある。
太田村
おおたむら
[現在地名]福井市太田町
福井平野の中、河北村の南に位置する。付近一帯は、古代は東大寺領糞置庄・鎧庄として早くから開発され、中世は太田庄に含まれていた。正保郷帳に村名がみえ、田方九三六石余・畠方二七八石余。枝村に岱ヶ端・太田島がある(越前国名蹟考)。慶長三年(一五九八)の検地帳(乗木家文書)には田畠合七〇町五畝一八歩とある。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば、酒井外記ほか八人の相給知行所。
太田村
おおたむら
[現在地名]湖西市太田
神座村の北、東流する太田川の左岸、同支流早稲川流域にある。東側の内浦が昭和三二年(一九五七)に干拓されるまでは浜名湖に接していた。古くは小知波村と称し(「庄屋弥治右衛門覚書」吉原家文書)、慶長九年(一六〇四)の海別筋小知波村検地帳(太田区有文書)三冊が残る。正保郷帳には大田村とみえ、田方二七七石余・畑方八三石余、幕府領、ほかに日蓮宗妙安寺領二石・神明領三石。元禄郷帳によると高三九五石余、幕府領・妙安寺領・八幡領(国立史料館本元禄郷帳)。
太田村
おおたむら
[現在地名]八郷町太田
吾国山南麓に位置し、東は中戸村、西は大増村。恋瀬川支流の河川から入込む谷津田が発達し、起伏が著しい。弘安大田文に北郡として「大田七丁一段三百歩」とあり、応永年間(一三九四―一四二八)の清音寺文書(「新編常陸国誌」所引)に「常陸国北郡内太田郷」とある。江戸初期に小田原藩領となり(寛文朱印留)、のち天領となる(各村旧高簿)。元禄郷帳の村高は四三五石余、文政一二年(一八二九)には七二八石余に増加する(「柿岡村外五十二組合村役人連印」綿引家文書)。
太田村
おおたむら
[現在地名]伊奈村南太田
板橋村東南に所在。台通用水東岸の微高台地に居住区があり、村域には南太田貝塚がある。弘安大田文の河内郡に「蒲田八段三百歩」とみえる蒲田は村内の鎌田地区に比定されている。江戸後期には天領で岡田寒泉が代官であった(岡田寒泉功徳碑)が、「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には下総関宿藩領四三〇・〇三八石と旗本内藤右衛門の知行地二一五・〇二石に分れていた。
太田村
おおたむら
[現在地名]亀岡市
田野町太田
太田山の南麓にあり、西は鹿谷村、南は佐伯村・吉田村、東北は南金岐村。地名の太田は当地が大嘗会の主基御料供米上進の所であったことによると伝える。また、掛川藩主家譜(寛政重修諸家譜)によれば、藩主太田氏は清和源氏頼政の流で、頼政五代の孫国綱が丹波国五箇庄に住し、その子資国が太田村に拠って太田を氏としたとある。
中世は佐伯庄の荘域であったと思われ、「康富記」応永二七年(一四二〇)一一月一〇日条に「桑田郡内佐伯庄大田」とみえる。
太田村
おおたむら
[現在地名]八尾市丹北太田・若林町一―二丁目
志紀郡太田村の西に位置し、丹北郡に属した。丹北太田と略す。大和川の付替えで村の南部が潰地となった。付替え後は新大和川の北にあたる。当村の田畑は志紀郡太田村田畑の西に位置するが、村人の居屋敷は志紀郡太田村の屋敷地と入組みになっている。京都大布施地蔵院蔵の大般若経巻四四五奥書に「河内国丹北郡太田郷三宅天満宮御経也」とある。年紀は応永二六年(一四一九)一一月一三日。「三宅天満宮」は現松原市の三宅にある屯倉神社のことと考えられ、当時三宅を含む太田郷の呼称があったことが知られる。
太田村
おおたむら
[現在地名]南濃町田鶴
松ヶ平村の東、揖斐川右岸にある。古くは太田新田ともいい、これと別に太田本新田村があった。正保郷帳に大田新田(岩瀬文庫本正保郷帳では太田新田村)とみえ、田八二〇石余・畑二九五石余で高須藩領。元禄郷帳では幕府領と同藩領の相給。宝暦九年(一七五九)の太田新田明細帳に高三一八石余とあるが、旧高旧領取調帳に高須藩領分七九八石余、笠松郡代支配分三一八石余とあることから、同明細帳は幕府領分の差出帳と考えられる。同帳によれば有高二七九石余・反別三一町一反余、家数二八のうち高持一五、人数一二二、牛四。
太田村
おおたむら
[現在地名]津山市大田
南西を宮川が流れ、南は沼村。東南条郡に属する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方一五九石余・畑方二四石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では二六一石余、うち改出高二二六石余・開高三五石余。「東作誌」では三〇戸・一二九人、天保九年(一八三八)の津山藩領郡村記録では三二戸・一二一人。
太田村
おおたむら
[現在地名]高根沢町太田
平田村の南、西部を五行川が、東部を井沼川が南流する。今宮祭祀録(西導寺蔵)に太田郷とあり、今宮神社(現氏家町)の政所の御簾二間を勤めた。近世は初め宇都宮藩領。慶安郷帳では高三五八石余、田方二七四石余・畑方八四石余。元禄郷帳の高四四一石余。
太田村
ただむら
[現在地名]日高町太田
栃本村の北東、神鍋山の東麓に位置する。太多とも書き(天保郷帳など)、古代の気多郡太多郷(和名抄)、中世の太多庄の遺称地。江戸時代の領主の変遷は頃垣村に同じ。寛永一六年(一六三九)の知高帳には多田村とあり、高二四一石余。
太田村
おおたむら
[現在地名]當麻町大字太田
兵家村東南方に所在。慶長郷帳の村高七〇三・五一石、旗本東条行長領。寛文二年(一六六二)行長の曾孫長矩が遺跡を継ぐ時、弟正甫に分知し、村高七〇三・五一三石のうち長矩領四七二・三石、正甫領二三一・二一三石となり、長矩領を上太田村(如意村ともいう)、正甫領を下太田村(単に太田村ともいう)と称した。
太田村
おおたむら
[現在地名]牛久町上太田
小野川右岸にあり、西は結束村。元禄郷帳の村高は二二五石余、幕末は前橋藩領で、村高は二二二石余(各村旧高簿)。水戸街道の若柴宿(現龍ケ崎市)の助郷村で、勤高は一二二石、安永四年(一七七五)の割当は一〇〇石につき人足五〇人、馬五〇疋であった(「若柴宿定助郷村々勤高」寺崎家文書)。
太田村
おおだむら
[現在地名]山南町太田
東は青田村、北端を篠山川が西流する。領主の変遷は阿草村に同じ。正保郷帳に大田村とみえ田高二六一石余・畠高四五石余、林あり、「はへ山」・日損少しあり。元禄郷帳には太田村と記され高三一七石余。「丹波志」によると高は変わらず家数一〇〇。
太田村
おおたむら
[現在地名]浄法寺町浄法寺
浄法寺村の西に位置し、北東は杉沢村、西は稲庭岳。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付に大田村とあり、蔵入高七九石余、七ヵ年平均の免は一ツ一分四厘八毛。元禄十郡郷帳では浄法寺村に入るとある。元文四年(一七三九)の福岡通絵図(盛岡市中央公民館蔵)では、蔵入高一三七石余・給所高二石余とある。
太田村
おおたむら
[現在地名]東粟倉村太田
後山川に沿い青野村の南西に位置。北西は野原村。正保郷帳に大田村とみえ、田五一石余・畑三〇石。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二七石余・開高四石余、村位は中。
太田村
おおたむら
[現在地名]大野市太田
赤根川に南面し、西大月村の西にある。村名は天文八年(一五三九)一〇月一八日付平泉寺賢聖院々領所々目録(平泉寺文書)の「大槻村分」の項に「太田村」とみえる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図は高四〇二・九五石と記し、これが近世を通じての村高となった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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