太閤ヶ平(読み)たいこがなる

日本歴史地名大系 「太閤ヶ平」の解説

太閤ヶ平
たいこがなる

栗谷くりたに町の谷筋の奥、百谷ももだににかかる標高二五二メートルの本陣ほんじん山の頂上部。久松きゆうしよう山より約一・五キロ東方にある。天正九年(一五八一)羽柴秀吉が鳥取城を攻めたとき本陣を置いた跡で、六月から一〇月まで在陣していた(「陰徳太平記」など)。「陰徳太平記」には秀吉摩尼帝釈まにたいしやく山に陣取ったとあり、この記述に基づいて「因幡志」は当山の本名は帝釈山で秀吉が本陣として以後その名が消えたとするが、「鳥府志」はこの説は誤りであろうとして、秀吉は鳥取到着後、初め摩尼帝釈山に本陣を構え、その後久松山の南東にある高山を本陣として移ったとする「故事編」の説が妥当であるとしている。

岡島正義は天保四年(一八三三)頃までに、自らこの地を踏査して「旧塁鑿覧」三巻(県立図書館蔵)を編んでいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「太閤ヶ平」の解説

たいこうがなる【太閤ヶ平】


鳥取城跡(とっとりじょうあと)

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報