宇治陵(読み)うじりよう

日本歴史地名大系 「宇治陵」の解説

宇治陵
うじりよう

[現在地名]宇治市木幡

木幡こはた一帯に散在する陵墓群の総称。この地は九世紀後半に藤原基経によって一門の墓所と定められたと伝え、木幡寺鐘銘并序(政事要略)に「元慶太政大臣昭宣公相地之宜、永為一門埋骨之処」、「栄花物語」巻一五に「木幡といふ所は、太政大臣基経のおとゞ、後の御諡昭宣公なり、そのおとゞの点じ置かせ給へりし所なり」とある。

寛弘二年(一〇〇五)藤原道長が、墓域のほぼ中央に木幡三昧堂(浄妙寺)を造営して藤原北家の菩提所として確立された。藤原冬嗣・基経・時平らの墓と伝える墳塚も存在するが確かではなく、藤原兼家・道長・頼通・師実ら一〇世紀末以降一二世紀前半の摂関や入内した藤原氏の子女が被葬者の中心となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報