藤原冬嗣(読み)ふじわらのふゆつぐ

  • 775―826
  • ふじわらのふゆつぐ〔ふぢはら〕
  • 藤原冬嗣 ふじわらの-ふゆつぐ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

[生]宝亀6(775)
[没]天長3(826).7.24.
平安時代初期の廷臣。通称,閑院左大臣。北家内麻呂の次男。母は飛鳥部奈止麻呂の娘,百済永継。大同1 (806) 年従五位下,弘仁1 (810) 年従四位下で蔵人頭,同2年参議,同5年従三位,同7年権中納言,同9年正三位,大納言,同 12年右大臣,天長2 (825) 年正二位で左大臣。没後正一位,次いで太政大臣を追贈。施薬院,勧学院を創設し,また『弘仁格』『内裏式』を撰進,『意見封事』3ヵを奏上した。そのほか,国史の監修に参画したが,業なかばでした。文武を兼ね,『文華秀麗集』『経国集』にがある。娘の順子仁明天皇文徳天皇生母北家のみならず藤原氏全体の政治的立場を確立した。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

775-826 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
宝亀(ほうき)6年生まれ。北家藤原内麻呂の次男。母は百済永継(くだらの-えいけい)。嵯峨(さが)天皇に信任され,北家繁栄の基礎をきずいた。弘仁(こうにん)元年(810)初代の蔵人頭(くろうどのとう),2年参議。14年正二位,天長2年左大臣となる。「弘仁格式(きゃくしき)」「内裏式」を撰進。詩が「凌雲集」などにはいっている。天長3年7月24日死去。52歳。正一位,ついで太政大臣をおくられた。通称は閑院大臣。

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朝日日本歴史人物事典の解説

没年:天長3.7.24(826.8.30)
生年:宝亀6(775)
平安初期の公卿。初代の蔵人頭。内麻呂と女孺百済永継(一説に飛鳥部奈止麻呂の娘とも)の子。閑院左大臣とも。贈太政大臣。嵯峨天皇の信任厚く,弘仁1(810)年,薬子の変に際して設けられた蔵人頭に巨勢野足と共に任じられ,宮廷の機密に与った。同5年4月には自邸閑院(平安左京三条二坊)に嵯峨を迎えて詩宴を催すなど,時代の好尚に応えるに十分な教養を有した。その後中納言,大納言,右大臣を経て天長2(825)年,桓武朝以来40年あまり空席であった左大臣に就任,この間良吏の起用や地方への巡察使の発遣,大嘗祭の斎場の飾りつけに金銀の彫刻を用いず簡素化を図るなど現実的な諸政策を展開した。その一方で娘順子と仁明天皇,次男良房と嵯峨皇女潔姫の結婚を実現,皇室との関係を深め,藤原北家隆盛の基礎を固めた。氏寺興福寺に南円堂を建立し,学問奨励のために勧学院(平安左京三条一坊)を設けるなど,一族への目配りも欠かなかった。『弘仁格』『内裏式』の選集に携わり,詩は『凌雲集』などに収められている。墓は宇治市木幡にあって後宇治墓と呼ばれたが,同域内にある夫婦塚(赤塚とも)は冬嗣と妻藤原美都子夫妻の墓とする伝承がある。

(瀧浪貞子)

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世界大百科事典 第2版の解説

775‐826(宝亀6‐天長3)
平安初期の官人。藤原北家の出身で,右大臣藤原内麻呂の二子。母は飛鳥部奈止麻呂の娘という。平安時代の藤原北家隆盛の素地をつくったと評される。しかしその生涯権謀術数に富んでいるというよりは,その政治的資質によるところが大きい。〈器局温裕,職量弘雅〉で,文武の才を兼備し,よく衆人歓心を得たという。801年(延暦20)大判事となり,平城朝には春宮亮,侍従となって天皇らに近侍し,左衛士督,大舎人頭などを歴任し,とくに嵯峨天皇の信任を得ていた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平安初期の政治家。右大臣内麻呂(うちまろ)の二男。後の嵯峨(さが)天皇が皇太弟となったとき春宮大進(とうぐうだいしん)、春宮亮(すけ)となり信任厚く、天皇即位後は昇進が著しかった。810年(大同5)3月に初めて蔵人(くろうど)を置いたとき蔵人頭(とう)を兼ね、同年9月の薬子(くすこ)の変後式部大輔(しきぶたいふ)ついで翌年参議に昇進、以後順調に昇進して右大臣となり、淳和(じゅんな)天皇即位後、左大臣に昇進し、嵯峨朝および淳和朝初期の重要政務に関与した。また勅命を受け『内裏式(だいりしき)』『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を撰修(せんしゅう)した。その子良房(よしふさ)は嵯峨天皇皇女の源潔姫(きよひめ)を妻に迎え、その女順子(じゅんし)は仁明(にんみょう)天皇の妃となり、後の文徳(もんとく)天皇を生むなど皇室との血縁関係を強く結び、藤原北家(ほっけ)興隆の基礎を築いたが、一方では氏寺興福寺に南円堂を建て、勧学院を創立するなど藤原氏全体の繁栄のために尽くした。広大な邸宅閑院に住み閑院左大臣と称せられた。天長(てんちょう)3年7月24日死去、文徳天皇即位後外祖父のゆえをもって太政(だいじょう)大臣を追贈された。

[福井俊彦]

『藤木邦彦著『日本全史3 古代Ⅱ』(1959・東京大学出版会)』

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精選版 日本国語大辞典の解説

平安初期の公卿。内麻呂の第二子。嵯峨天皇の信任あつく、蔵人頭、陸奥出羽按察使、中納言、大納言、右大臣、左大臣と進み、娘順子を仁明天皇の妃にするなど皇室と血縁を深め、家運の隆盛を図った。「弘仁格式」「内裏式」「日本後紀」などの撰定事業を行ない、一族子弟のために勧学院を設けた。宝亀六~天長三年(七七五‐八二六

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

775〜826
平安初期の公卿
北家の内麻呂の2男。嵯峨天皇の信任を得,810年薬子の変のとき蔵人頭 (くろうどのとう) となった。昇進して左大臣となり,娘順子を皇太子正良親王(仁明 (にんみよう) 天皇)のとなって道康親王(文徳天皇)をうみ,北家隆盛の基礎を築いた。『弘仁格式』を編纂,勧学院をつくって子弟を教育し,興福寺南円堂を建立した。また漢詩が『文華秀麗集』『経国集』におさめられている。

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世界大百科事典内の藤原冬嗣の言及

【閑院】より

…平安初期の藤原冬嗣にはじまる邸宅。平安京二条大路の南,西洞院の西。…

【勧学院】より

…平安時代に設けられた藤原氏出身の学生のための教育施設。821年(弘仁12)に,右大臣藤原冬嗣が一族子弟の大学生のための寄宿舎として建てたもので,やがて大学寮の付属施設として公認され,大学別曹となった。左京三条一坊にあり,大学寮の南に当たるので南曹とも称し,また氏院(うじのいん)ともいわれた。…

【練香】より

…このほかにも20余種の練香が伝えられているが,基本的には現在でもこの6種に代表される。練香を初めて合わせたのは閑院左大臣藤原冬嗣であるという。以後多くの宮廷人が季節の情趣を表現しようと秘法を競い,〈六種薫物〉の作製についても80種以上の調合処方が残されている。…

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

【文華秀麗集】より

…書名は文(あや)のある美しく秀でた作を集めた詩集の意。嵯峨天皇の勅命を受けた藤原冬嗣が仲雄王(なかおおう)や菅原清公(きよとも)らに命じて編集させたことが,仲雄王の序文にみえる。作者26名(序文では数に入れていない嵯峨天皇,東宮淳和を加えて28名),詩数148首(現存本は5首欠)。…

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