木幡村(読み)こはたむら

日本歴史地名大系 「木幡村」の解説

木幡村
こはたむら

[現在地名]宇治市木幡〈赤塚あかつか内畑うちはた大瀬戸おおせど御蔵山おくらやま金草原かなくさはら河原かはら北島きたじま北畠きたばたけ北山きたやま北山畑きたやまはた熊小路くまこうじ正中しようなかじんうち須留すどめ中村なかむら西浦にしうら西中にしなか畑山田はたやまだ花揃はなぞろえ東中ひがしなか檜尾ひのきお平尾ひらお松峠まつとうげ御園みその南端みなみはた南原みなみはら南山みなみやま南山畑みなみやまはた

現宇治市の北部に位置する。北は宇治郡日野ひの石田いしだの両村(現京都市伏見区)、西は宇治川を隔てて紀伊郡向島むかいじま(現伏見区)に対し、西北の一部に六地蔵ろくじぞう村が介在する。東方は醍醐だいご山地西端を縦走する山稜をもって炭山すみやま村と、南は弥陀次郎みだじろう川の細流を境界として五ヶ庄ごかのしよう村と接する。村域は東部の山地から西に傾斜し、東半部は丘陵地をなす。西部の宇治川右岸近傍は、南北に長い木幡池が展開する低湿地である。

「古事記」に応神天皇が淡海への行幸の途次「木幡村に到り坐しし時」和珥日触使主の娘矢河枝比売と会い、后としたという話がみえる。「万葉集」に

<資料は省略されています>

があり、この木旗・強田が木幡である。この地が宇治川渡河点から近江逢坂おうさか(現滋賀県大津市)へ続く古北陸道の要衝であって、早くから駅馬の施設があったことが推定されている。

古代の木幡は、近世の木幡村域のみならず、北は伏見山(桃山丘陵、現伏見区)をも含む広域の汎称であったとされ、山城国山科郷古図(彰考館旧蔵)には、村域の西北方、桃山丘陵南部と考えられる辺りに「木幡山・木幡堺・木幡堺西」の里名が記入されている。「三代実録」元慶六年(八八二)一二月二一日条にも「勅山城国(中略)紀伊郡芹川野・木幡野(中略)天長年中既禁従禽今重制断、山川之利藪沢之生与民共之莫妨農業云々」とあって、紀伊郡にまたがる地名であった。

木幡が現今のような狭域地名として定着するのは平安後期以後のことであったらしい。宇治郡条里の五条・六条、六里・七里付近を占める木幡村域は、現存する八―九世紀の数点の屋地売券(東大寺東南院文書)や、「和名抄」の記載から、宇治郡加美かみ郷内であることが知られ、「堤田村」の称があった。

木幡村
きばたむら

[現在地名]茂木町木幡

高岡たかおか村の南、大平おおひら山の東麓に位置し、村の中央をさか川が北流する。常陸笠間かさま(現茨城県笠間市)と茂木を結ぶ往還が逆川に沿って走る。慶長九年(一六〇四)常陸麻生藩領となる。寛永八年(一六三一)検地では田一七町四反余・畑二四町八反余、高三七三石余(茂木のあゆみ)。慶安郷帳では田一八九石余・畑八一石余、ほかに慈源じげん(慈眼寺)領五石・松源しようげん寺領五石。寛文四年(一六六四)の麻生藩領知目録に村名がみえる。元禄一一年(一六九八)旗本梶川・大久保・長田・逸見領の四給となる(茂木のあゆみ)

木幡村
きばたむら

[現在地名]矢板市木幡・東町あずまちよう

矢板村の南に位置する。木幡神社の縁起によると、坂上田村麻呂が山城国木幡こはた(許波多)神社(現京都府宇治市)を勧請した際にみね村を改め、木幡村としたという。宇都宮氏旧臣姓名書に木幡村の斎藤新左衛門がみえる。慶安元年(一六四八)に村内二〇〇石が木幡神社領となり、慶安郷帳では高一二五石余で幕府領、高外として同社領二〇〇石を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報