陵墓(読み)リョウボ

デジタル大辞泉 「陵墓」の意味・読み・例文・類語

りょう‐ぼ【陵墓】

みささぎと、はか。天子や天皇・皇后・太皇太后皇太后を葬る所である陵と、その他の皇族を葬る所である墓。
[類語]御陵山陵

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「陵墓」の意味・読み・例文・類語

りょう‐ぼ【陵墓】

  1. 〘 名詞 〙 中国の帝王、また日本の皇室関係の墳墓。明治二二年(一八八九)の皇室典範では、天皇、皇后などを葬る所を陵、その他の皇族を葬る所を墓とする。時代により形式は変化し、高塚式や、堂塔式などがある。大正一五年(一九二六)の皇室陵墓令では、上円下方丘また円丘と定められている。みささぎ。山陵。
    1. [初出の実例]「凡陵墓側近有原野者、寮仰守戸」(出典:延喜式(927)二一)
    2. [その他の文献]〔杜甫‐諸将五首詩〕

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「陵墓」の意味・わかりやすい解説

陵墓 (りょうぼ)

君主の墳墓をいう。

文献では《史記》趙世家,粛侯15年(前335)の条に〈寿陵を起こす〉とあるのが初めてで,戦国中期,国君が生前にみずからの墓をつくり,それを〈陵〉と称したことを記す。墓上に土を盛り上げた墳丘墓の出現は春秋末期からで戦国時代に盛行した。例外として安徽省屯渓西周墓ほかがあるが,低湿地に特殊に発達したものである。もともと殷・周時代の墓には墳丘がなかったのに対し,春秋戦国時代に墳丘墓が出現する理由を,古代史家の楊寛は,(1)殷・周から春秋戦国への社会変革により奴隷主貴族が没落して旧礼制の秩序が崩れ,宗族単位の埋葬制度に代わり,地主階級による家族単位の埋葬制度が形成された,(2)新興の地主・大商人層は家族私有財産の相続を図り,喪礼を重んずることでその継承を強固にせんとした,(3)集権君主体制が成立,爵位に基づく新身分制度が確立し,墳墓の大小,高低,棺槨,副葬品にまで厳格な規定がつくられた,(4)墓室排土の処理,の四つをあげている(《中国皇帝陵の起源と変遷》)。

 しかし,すでに墳丘墓が出現しているなかで,君主の墳墓のみが〈陵〉と称されるには墳丘のほかに特別な施設が含まれていたと解される。河北省平山県三汲公社は中山国古霊寿城の地で,城西2kmに平山1,2号墓がある(中山王墓)。1号墓出土の〈兆域図〉によると1,2号墓は中山国王(さく)とその哀后の墓で,さらに3基を加え計5基が台基上に並び,2重の牆垣をめぐらす大規模な陵園が築かれるはずであった。1号墓はほぼ100m四方の方形で,現在高さ約15mの版築封土をもつが,この封土は単なる墳丘ではなく,実は墓坑直上を3層の瓦葺き建築で覆うための土台にほかならない。同様に台基を築き木造建築を建てたものに河南省輝県固囲村墓があり,高さ2mの版築台基上に3基の大型墓が並び,中央の2号墓は7間四方,左右の1,3号墓は5間四方の木造建築で覆われていた。この墓は戦国中期,魏国の高級貴族と夫人ないし近親者の墓である。近年,河北省邯鄲市北西丘陵上で発見された5組の墳墓も大規模な陵台をもち,その中央に一辺40~50m,高さ5.5~12mの墳墓を数基ずつもつ。発掘された周窰(しゆうよう)1号墓は封土の状況が明確でないが墓上に多数の瓦片が散布し,木造建築のあったことは明らかである。明確な証拠はないが,これらの陵台が趙敬侯の邯鄲遷都(前386)以後の趙王陵群と考えて誤りなく,《史記》の伝える粛侯の寿陵に相当するものが含まれているはずである。このように墓室直上に木造建築を建てるものは,さかのぼって殷墟婦好墓上に2間×3間の木造建築があり,安陽大司空村311,312号墓にも墓坑直上に建築基址があり古く殷代からの伝統であることが判る(殷墟)。これら建物の性格には議論があるが墓主の日常供奉のための〈寝〉と考える説が有力である。このように見ると陵墓の発生は戦国中期,集権君主権が確立した段階で戦国諸国において規模を競い,特有の構造で発生したものである。

これら戦国諸国を次々征服し,史上はじめて中国全土を統一した始皇帝の陵である始皇陵は,即位と同時に天下の刑徒70万人を動員して築かれ,東西345m,南北350m,高さ約76(一説に43)mで最大の規模をもつ。陵を囲んで南北に長い二重の牆壁があり,外牆壁は周長約6.3kmに達する。陵は内牆壁の南部にかたより,北部は陵寝付属建築があった。この陵園の内外に,数千体の等身大俑と戦車からなる兵馬俑坑をはじめ,青銅馬車坑,殉葬坑などが多数設けられ,規模の雄大さを示している。

 前漢の帝陵は秦のそれをひきついだ。蔡邕(さいよう)は,《独断》下で〈古は墓祭せず,秦始皇の寝を出すに至りてこれを墓側に起こす,漢因(よ)りて改めず,故にいま陵上を寝殿と称し起居,衣冠,象生の備あり,みな古の寝の意なり〉といい,足立喜六は《長安史蹟の研究》の中で,始皇陵はじめその制をうけた前漢帝陵の頂上に瓦片の散布を記している。しかし現在は見当たらず,寝が陵上にあったか否かはなお今後の調査にまつほかない。前漢の陵墓は,文帝の覇陵と宣帝の杜陵が西安南東郊に営まれたのを除き,他の9陵はいずれも渭北高原にそびえる。陵はすべて截頭方錐形で底辺はほぼ160m四方,高さ30mあまりである。ただ武帝の茂陵のみひときわ大きく,底辺240m四方,高さ46.5mを測る。諸陵の四周を方形の牆壁が取り囲み,四方に門闕(もんけつ)をもつ()。皇后陵は一段小さく,また臣下の陪冢(ばいちよう)をもつものがある。これら諸陵の維持のため,高祖から昭帝まで,文帝を除く5陵に陵邑が設けられた。後漢の皇帝陵は帝都洛陽の北邙山に営まれたが,今比定しうるのは河南省孟津県城北西7kmの光武帝原陵のみで,他は不明である。明帝は光武帝の原陵において公卿百官を伴い〈上陵の礼〉を行った。これまで宗廟で行われていた最も重要な儀式が陵墓に移され,その地位が高まった。

 魏晋南北朝時代は政権の頻繁な交替や分裂,割拠に加え,北方少数民族の中原進出により戦乱が続き,社会は混乱した。盗掘をおそれてこの期の陵墓は墳丘を築かず,墓室は隠されている。南京市富貴山の東晋恭帝の沖平陵は窪地に築き,埋葬後両側の山と同じ高さに封土を盛っている。南朝の諸陵はほとんど山腹に構築され,陵墓の前に巨大な石麒麟,石辟邪(へきじや),双闕,石碑を建てるのを常としている。南京の東,丹陽県には斉,梁の王陵があり,南京市周辺では麒麟門外の宋武帝初寧陵,江寧県上坊鎮の陳武帝万安陵,南京市甘家巷獅子沖の陳文帝永寧陵などが著名である。南北朝時代,華北において墳丘墓が復活したのは北魏文明太后馮(ふう)氏の永固陵である。山西省大同市北約25kmの方山上にあり,484年(太和8)完成した。封土は高さ約23mの円形で,基底部は方形につくり南北117m,東西124mある。永固陵の北に孝文帝が高さ13mの円形で,毎辺約60mの方形の基底をもつ万年堂を寿陵として築いた。孝文帝は洛陽に遷都し,其地で新たに長陵を築いた。洛陽老城の北西15km,河南省孟津県官荘村東の大塚がそれに比定され,つづく宣武帝の景陵は塚頭村東大塚,孝荘帝の静陵は上砦村南大墓と考えられている。

唐の陵墓は最後の昭宗和陵を除く18陵がすべて渭水の北にあり,関中十八陵と称する。初代高祖献陵は平地に築かれ高さ約15m,一辺100m前後の方錐形であるが,太宗昭陵は墳丘を築かず九嵕山(きゆうそうざん)の山腹に墓坑をうがち山上陵とし,唐代帝陵の制とした。高宗と則天武后の乾陵では山をめぐって牆壁が築かれ,四方に門があり石獅子がおかれた。南方の朱雀門内には献殿が建てられ,上陵,朝拝の礼など重要な儀式の場であった。朱雀門から南にのびる参道の両側には多数の石人,石馬,朱雀,天馬が並び,朱雀門の南に蕃酋像がある。このような陵前の石刻配列は乾陵が規範となった。また陪葬の制を復活したのは太宗であった。昭陵には百数十人の陪葬があり,なかでは3人の嫡出の皇女と魏徴,李靖,李勣(りせき)の3人の功臣墓が際だって大きい。乾陵陪冢では〈墓を号して陵となす〉とされた懿徳(いとく)太子墓永泰公主墓が格別の構造と規模を示す。五代では江蘇省江寧県東善鎮の李昪・李璟の南唐二陵,四川省成都の前蜀王建墓,後蜀孟知祥墓が調査されている。すべて盗掘されていたが,墓室や棺台の装飾が入念で,副葬品に玉帯,玉冊などがあった。北宋の陵墓は河南省鞏(きよう)県にある。基本的な形態は唐の帝陵を襲っているが,すべて平原上に営まれ,かつ寿陵ではなく,死後7ヵ月以内に完成させる規定のため小型になっている。陵墓は方形で一辺50~55m,高さ15~17mあり,周囲を神牆で取り囲み,隅に望楼,四方に神門を開く,南神門の外側に宮人,武人,蕃使,石羊,石虎,石馬,角端,瑞禽,石象,望柱を並べる。皇后陵は一段小さく左後方に設ける。唐の献殿に当たる〈上宮〉は南神門の内側に,日常供奉に当たる〈下宮〉は陵の北西に建てられた。南宋は紹興を陵園の地としたが陵墓はなお未調査である。

 明の太祖洪武帝の孝陵は陵墓を大きく改革した。(1)陵墓を方形から円形に改めた。(2)下宮すなわち寝の造営をやめ,陵の日常供奉を廃止した。(3)陵園の囲牆を方形から長方形に改め,これを三分し,第1の中庭には碑亭などを,第2の中庭には大規模な稜恩殿を,第3の中庭には方城と明楼を設け,墳丘を宝頂と称した。第3代永楽帝は都を北京に移し,北西郊昌平県の北部に長陵を築いた。この地は引き続き明朝陵墓が集中し,明十三陵とよばれる。そのうち万暦帝の定陵が発掘され,地下宮殿としてその巨大な墓室と豪華な副葬品が公開されている。清は明の陵制を引き継いだ(清陵)。ただ第1の中庭に東西朝房を設け,また稜恩殿を隆恩殿と改称し,宝頂は円形から,前が方で後方が半円となる形に改めている。
墳墓
執筆者:

皇室の墳墓で宮内庁が管理するものをいう。宮内庁法によって,宮内庁が管理している陵,墓,分骨所,火葬塚,灰塚,分骨塔,髪・歯・爪埋納の塔および塚,天皇皇族塔,陵墓参考地,殯斂地(ひんれんち),陪冢,白鳥陵などである。陵墓は皇室用財産に指定され,皇室の用に供する目的をもった国有財産である。皇室典範第27条には〈天皇,皇后,太皇太后,皇太后を葬る所を陵,その他の皇族を葬る所を墓〉と定義する。(1)陵 〈みささぎ〉と読み,御陵(ごりよう),山陵(さんりよう)ともいわれ,各陵には陵名が付けられている。現在の陵は歴代天皇121名111陵のほかに,北朝の天皇,皇后,中宮,天皇または太上天皇の称号をおくられた者,皇后,皇太后,太皇太后の称号をおくられた者,神代3代など82名の74陵がある。この中には崇峻天皇安徳天皇の陵のような遺骸を葬っていない霊廟的な所もある。(2)墓 現在の墓は557名の551墓で,この中には天皇の後宮で淮后または女院となった皇族でない女子の墓もある。(3)分骨所 天皇,皇后の火葬骨を分骨して葬った御骨所と呼ばれた所のうち,現在の陵以外の所をさす。仏教信仰によるもので13世紀から16世紀の天皇,皇后のものがある。(4)火葬塚 天皇,皇后を火葬した所に,拾骨後塚を築き霊をまつる。江戸時代以前には御墓所または御陵と呼び,御骨所より重んじられた。淳和天皇に始まり後花園天皇に終わる27名のものがある。(5)灰塚 火葬拾骨後残った灰骨を集め葬った所である。後小松・後土御門~後陽成の6天皇のものが,京都の泉涌寺(せんにゆうじ)内にある。火葬が同一場所で行われるようになって,火葬塚の代りに設けたとみられ,陵と称した時期がある。(6)分骨塔 皇族の火葬骨を分骨して葬った墓以外の所をいう。(7)髪・歯・爪埋納の塔および塚と天皇皇族塔 天皇,皇族の髪・歯・爪・遺品等を埋納し,寺院に追善供養を行わせた所で,宮内庁所管の61基は,大部分江戸時代以降の天皇,皇族のものである。(8)陵墓参考地 記録,伝承,墳丘の規模,副葬品などによって,皇室関係者の墳墓と認定されたが,被葬者を特定する資料または墳墓の種別を特定する資料のない所で,46ヵ所ある。(9)殯斂地 陵および墓へ埋葬する前の仮埋葬地。(10)白鳥陵 《日本書紀》に記す白鳥と化した日本武尊の霊をまつった所。(11)陪冢 古代の高塚式陵墓の周辺に,陵墓に随従するように散在する小墳で,宮内庁が所管する。

 陵墓の形態は,8世紀以前は前方後円墳,円墳,方墳,上円下方墳などの高塚が主流で巨大古墳の大半を占めるが,仏教伝来によって仏塔形式の高塚も行われた。9世紀の一時期には,冢墓は廃墳となるとたたりの根源となるとの思想から,高塚を作らなかったり,廃墳に二次埋葬してたたりを減らすことも行われたが,やがて読経供養が常時行われて,たたりの根源とならぬ仏堂,仏塔,石塔などの仏教形式のものに移行した。18世紀以後石塔形式が主流となったが,埋葬施設は梯形棺に七星板を納めた儒教形式をとる儒仏混合の石塔も行われた。明治以降は円丘や上円下方丘が多く採用された。

 陵墓の祭祀は,古代の各陵墓には毎年12月当年の調庸の初物を献ずる荷前(のさき)の制度と,これと同時に天皇の近縁陵墓へ内裏から幣物を別に献ずる別貢荷前の制度があって,時代が下ると形式化するが,14世紀前半まで行われていた。陵墓が仏教形式になると,陵墓の供養田を寺院につけて祭祀を継続的に行わせ,明治時代には,このほかに神式祭祀をも行うようになった。現在皇室では,陵墓には毎年御命日に神饌供進または祭典を行い,御命日不明の陵墓には毎年春または秋の彼岸に神饌供進を行っている。

 陵墓の管理は,令制では治部省管下の諸陵司(後に諸陵寮)が業務を統括し,各陵墓に陵戸(りようこ)・守戸(しゆこ)などを置いて管理させたが,《延喜式》では各陵墓に預人を加えた。令制の崩壊につれて陵墓戸は荘園化され,15世紀中ごろにはこの制度は消滅した。一方,12世紀ころから陵墓に所領を付け陵墓別当を置くなどして,寺院に管理させることが行われ,この制度は幕末まで行われた。1697年(元禄10)幕府は管理の行われなくなった諸陵の探索を行い,陵に垣を設けてその管理監督を所在地の知行藩または幕府出先機関に行わせた。諸陵探索の集大成である幕末の修陵が一段落すると,幕府は1864年(元治1)2月山陵奉行を設置して,諸陵の管理業務をその支配下に移し,65年各陵に取締,長,長格守戸,守戸などを任命し,組合を組織させて現場管理を行わせた。明治政府は,業務の統括を神祇官諸陵寮,神祇省,教部省,内務省,宮内省,宮内省諸陵寮へと移したが,現場管理は幕末の制度が継続された。74年府県に陵墓掌,陵墓丁,守丁を置いて管理することになり,83年これを宮内省職員に移し,守長,守部に改称,1917年にはこれに陵墓監を配置した。現在は宮内庁書陵部が業務を統括し,陵墓所在地を地域別に多摩,桃山,月輪,畝傍,古市の5監区に分けて,各監区に事務所を設けて陵墓監を置き,陵墓には守長,守部などを置いて管理を行っている。
帝王陵
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア 「陵墓」の意味・わかりやすい解説

陵墓【りょうぼ】

現在,歴代天皇・皇后等の墓として,宮内庁が比定し,国が維持・管理しているものの通称。1947年(昭和22年)に制定された《皇室典範》によれば〈天皇・皇后・太皇太后(たいこうたいごう)及び皇太后を葬る所を陵,その他皇族を葬る所を墓〉と規定されている。参考地を含め,全国で陵墓は900ヵ所,そのうち240基が古墳に該当する。古代の陵墓は,ほとんどが江戸末期〜明治時代にかけて比定されたもので,現在でも伝承上の天皇の陵が存在するなど,比定の根拠については検討を要すべきものが多い。とくに30基ある大型前方後円墳のうち,24基が天皇陵古墳に比定されており,古墳時代や古代国家成立の研究に欠かせない資料として重要視されているが,宮内庁は,これらを天皇の祖先の墓として,文化財とは認めず,考古学研究者による発掘調査は実施されていない。そのため,古墳の内部構造,副葬品等から年代を明らかにすることはおろか,比定されている被葬者についても特定することは難しい状況である。
→関連項目皇室財産尚泰土師氏

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

普及版 字通 「陵墓」の読み・字形・画数・意味

【陵墓】りようぼ

御陵。漢・張衡〔西京の賦〕昔の・喬(赤松子と王子喬、古の仙人)を美(よ)しとし、羨門(古の仙人)を天路に(もと)む。~(も)し世を經て長(とこし)へに存せば、何ぞ遽(には)かに陵を營まんや。

字通「陵」の項目を見る

出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報

知恵蔵 「陵墓」の解説

陵墓

宮内庁が管理する陵は、歴代天皇112、皇后など76の計188。皇族らの墓は552。また伝承などから陵墓の可能性があるとして管理する陵墓参考地は46。現に命日に当たる日に式年祭をとり行っている「生きたお墓」として部外者の立ち入りを拒んできた宮内庁に、考古学界の批判が高まっており、近年は地元自治体などとの合同調査や修復のための調査などに一部研究者の立ち入りを認めるケースも出てきた。

(岩井克己 朝日新聞記者 / 2008年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

世界大百科事典(旧版)内の陵墓の言及

【古墳】より

…古墳は古墳時代のものであり,古墓はそれ以後のものとしたのである。なお,《延喜式》は諸陵寮所管の陵墓を天皇および特定の皇后の陵と,皇子・皇女・太政大臣などの墓とに分けている。陵と墓との区別は,被葬者の身分の相違により,営造年代にはかかわらぬという立場である。…

【諸陵寮】より

…陵墓に関する事務を行う役所。729年(天平1)令制の治部省管下の諸陵司を,機構を拡張して改称した。…

【中国建築】より

…それは日本,朝鮮半島を包摂する東アジア文化圏の中心に位置すると同時に,特定の時期には中央アジアおよびインドとの交流をも消化しており,世界建築史上に特異な地位を占める。歴史的にみて,中国建築史の主流をなすのは,主として漢民族の王朝によって支配された都城,宮殿,壇廟,陵墓,長城など,官営建築の巨大な規模の工事の間断ない繰り返しであって,しかもそれら大群の建築が,中国封建社会に特有の官僚制度によって制御されたことが,時代を貫く不断で不変的な各種の原則を生みだす基本的要因となったと考えられる。 中国の建築は,通常,単体としてではなく,群体としての効用を意図して営まれるのが特徴である。…

【帝王陵】より


[王墓と帝王陵]
 帝王陵の名に値する墓として,あるいは大規模な葬送儀礼が行われたことを示す墓として,かつて問題にされた墓を列挙してみよう。応神,仁徳に代表される古代天皇陵,殷の大墓,秦漢帝国以降の帝陵,朝鮮三国時代から新羅統一時代にいたる陵墓,西アジアのウルの王墓とウル第3王朝の陵,ペルシア帝国の王陵,ハリカルナッソスのマウソレウム,エジプトのマスタバやピラミッドなどが著名である。これらの墓は2種類に大別することができる。…

※「陵墓」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android