日本大百科全書(ニッポニカ) 「守山藩」の意味・わかりやすい解説
守山藩
もりやまはん
江戸時代中期より陸奥(むつ)国田村(たむら)郡守山(福島県郡山(こおりやま)市)周辺を領有した家門(かもん)小藩。1662年(寛文2)、水戸藩主徳川頼房(よりふさ)の四男松平頼元(よりもと)が、水戸藩より新田2万石を与えられて分家。1700年(元禄13)、その嗣子(しし)頼貞(よりさだ)が幕府より新たに陸奥・常陸(ひたち)両国内において2万石を与えられたので、旧領を水戸藩に返上し、守山に陣屋を営み立藩した。参勤交代を行わない定府(じょうふ)大名であった。頼貞のあと、頼寛(よりひろ)、頼亮(よりあきら)、頼慎(よりよし)、頼誠(よりのぶ)、頼升(よりのり)、頼之(よりゆき)と7代続いた。藩領は田村郡内26か村、常陸国(茨城県)行方(なめかた)郡内11か村、鹿島(かしま)郡内15か村、茨城郡内8か村で構成され、内高は2万9000石余であった。戊辰(ぼしん)戦争には奥羽越列藩同盟に参加したが、藩内には勤皇派が多かったため、1868年(慶応4)7月、新政府軍が守山に迫ると、藩兵は戦わずして降伏した。69年(明治2)頼之は版籍を奉還して守山藩知事に任じ、翌年、藩庁を常陸国松川に移した(松川藩)ので廃藩となった。
[細井 計]