国指定史跡ガイド 「宗麟原供養塔」の解説
そうりんばるくようとう【宗麟原供養塔】
宮崎県児湯(こゆ)郡川南町湯迫にある石塔。小丸川下流の左岸台地上の南端に所在する。九州の戦国時代の推移を示す遺跡として、1933年(昭和8)に国の史跡に指定された。1572年(元亀3)、木崎原(きさきばる)の戦いで島津氏に敗れた伊東義祐(よしすけ)は次第に勢力を失い、島津氏は日向のほとんどを手中に収めた。一方、大友宗麟(そうりん)は北九州を攻略し、一大勢力を築いていたが、1578年(天正6)に日向侵攻を図り、県(あがた)(延岡市)の土持(つちもち)氏を討ち、高城(たかじょう)(児湯郡木城町)で島津勢力と対峙。両軍は高城川原で激戦を交わし、島津氏の勝利に終わった。大友氏は敗走の途中、耳川の戦いにも敗れ、島津氏は九州随一の勢力となった。この戦いによる戦死者は、大友軍4000、島津軍3000を下らなかったといわれ、高城から耳川にかけての一帯は屍で埋まったという。島津氏は両軍の死骸を集めて供養塚を築き、大施餓鬼(おおせがき)を行い、卒塔婆(そとば)を立てて霊を弔い、七回忌の1585年(天文13)には島津の将、山田新介が敵味方の区別なく、戦死者を供養するために供養塔を建立。供養塔は、明治時代に谷に捨てられ、大正時代ごろに据え直した経緯があるが、現在の高さは約3.5m、六面に地蔵を彫った石灯籠式のものである。JR日豊本線川南駅から車で約20分。