宥範(読み)ゆうはん

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「宥範」の解説

宥範 ゆうはん

1270-1352 鎌倉-南北朝時代の僧。
文永7年生まれ。真言宗。郷里讃岐(さぬき)(香川県)無量寿院の覚道,下野(しもつけ)(栃木県)鶏足寺の頼尊らにまなぶ。のち下野衣寺の宥祥の大日経の講義をまとめて「大日経疏妙印鈔(しょう)」をあらわす。讃岐善通寺を修造し,同寺中興の祖とよばれた。観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年7月1日死去。83歳。号は大弐房。法名は宥鑁ともかき,「ゆうばん」ともよむ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の宥範の言及

【讃岐国】より

…しかし85年4~7月,豊臣秀吉が大軍をもって四国征伐を企てると長宗我部氏はもろくも降服,戦後処理として讃岐には秀吉の将仙石(せんごく)秀久が派遣されその支配が行われるに至った。 鎌倉末・南北朝から戦国時代は地方文化の時代でもあったが,代表的な建造物として坂出市神谷神社本殿,三豊郡豊中町本山(もとやま)寺本堂があり,真言の僧宥範(ゆうはん)や増哞(ぞううん)の活動にはいちじるしいものがあった。また山崎宗鑑の来住と活動も注目される。…

【善通寺】より

…しかし,出土古瓦などの研究により,すでに白鳳期から佐伯氏の氏寺があったとの推定もある。歴代天皇の崇信と保護は厚く,寺領荘園の寄進が続き,鎌倉中期に全盛期を迎えたが,1340年(興国1∥暦応3)全山炎上,そのあと中興の祖とされる宥範(ゆうはん)(1270‐1352)が,足利氏歴代の外護(げご)で10余年の歳月をかけて堂塔を復興した。しかし戦国末期に再び兵火のため炎上し,現存堂宇のほとんどは近世に入って,高松,丸亀両藩主らの援助による再建である。…

※「宥範」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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