日本大百科全書(ニッポニカ) 「松浦荘」の意味・わかりやすい解説
松浦荘
まつらのしょう
佐賀県東松浦(ひがしまつうら)郡にあった最勝光院(さいしょうこういん)領の荘園。この地はもと筑後守(ちくごのかみ)国兼(くにかね)の所領であったが、その子国通(くにみち)に譲られ、1139年(保延5)ごろ鳥羽院庁下文(とばいんのちょうくだしぶみ)によって別符(べふ)となり、四至牓示(しいしぼうじ)を打って立券(りっけん)された。その後女(むすめ)の大江氏が伝領し、三代相伝を経て平政子(まさこ)が譲得した。ところが政子は1175年(安元1)ごろ建春門院(けんしゅんもんいん)に寄進し、その没後最勝光院に寄進された。そして政子は松浦荘の預所職(あずかりどころしき)を安堵(あんど)されている。『東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)』治承(じしょう)2年(1178)6月20日の後白河院庁(ごしらかわいんのちょう)下文によれば、松浦荘の四至は、東は松浦河并(ならびに)東郷堺山(とうごうさかいのやま)、西は木須嶺(きすのみね)并波多津(はたのつ)西崎、南は大瀬(おおせ)并杵島(きしま)一荘の堺、北は海并加加良島(かからじま)とあり、ほとんど東松浦郡全域に及ぶ広大な荘園であったことがわかる。その後松浦荘は後白河法皇の管理下に置かれ、1192年(建久3)の御領処分によると長講堂(ちょうこうどう)領に入れられていたが、1270年(文永7)以前にふたたび最勝光院領に復していた。1292年(正応5)8月16日の河上宮(かわかみぐう)造営用途支配惣田数(そうでんすう)注文によると「松浦西郷(さいごう)元四百十丁」とあるのが松浦荘にあたる。1325年(正中2)の最勝光院領年貢散状(さんじょう)によると、領家は菅三位(かんざんみ)、本年貢米50石、綾被物(あやのかずけもの)1重、代銭30貫文、ただし文永(ぶんえい)7年(1270)以来、モンゴル(元)襲来を口実に未進していたことがわかる。南北朝以後は在地武士の侵略で不知行(ふちぎょう)の状態にあり、荘園としての機能を停止していた。
[瀬野精一郎]