日本歴史地名大系 「宮倉村」の解説 宮倉村みやぐらむら 徳島県:那賀郡羽ノ浦町宮倉村[現在地名]羽ノ浦町宮倉中庄(なかのしよう)村の北西にあり、北東部に能路寺(のろじ)山(二五・八メートル)がある。北は大林(おおはやし)村・立江(たつえ)村(現小松島市)。土佐街道がほぼ南北に通り、一里塚が置かれていた。村名は、「日本書紀」に安閑天皇二年五月九日に筑紫・播磨などの屯倉とともに置かれたとみえる「阿波国春日部屯倉」に由来するとされる。慶長九年(一六〇四)の那西郡宮蔵中村検地帳(羽ノ浦町教育委員会蔵)があり、高合九一八石余、反別は田六〇町六反余・畠方居屋敷四町四反余。近世初期には中(なか)村(のち立江村)と一村として扱われたらしい。また南西部羽ノ浦丘陵東麓は枝村の羽浦(はのうら)で(阿波志)、慶長二年の分限帳には那東(なとう)郡の羽野浦(はのうら)とみえ、一八四石余が山崎六郎右衛門の知行分。正保国絵図では宮倉村とあり高九七三石余。ほかに宮倉之内として羽ノ浦村が記されるが石高は記載されない。寛文四年(一六六四)の郷村高辻帳では田方九四四石余・畠方二九石余、枝村として羽ノ浦村が記され、芝山と注記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報