宮瀬村(読み)みやぜむら

日本歴史地名大系 「宮瀬村」の解説

宮瀬村
みやぜむら

[現在地名]中条町宮瀬

胎内たいない川左岸にあり、西をほり川が北へ流れる。西は高畑たかばたけ村、南は山王さんのう村に接する。南東こう上宮瀬かみみやぜともよばれ、当村の枝郷。延徳二年(一四九〇)八月一一日の上杉氏(房定)老臣連署奉書(山形大学所蔵中条家文書)奥山おくやま庄内黒川知行分として「宮瀬」とみえ、他の三ヵ所とともに前年以来の忠節の恩賞として中条定資へ与えられた。この四ヵ所は文明年間(一四六九―八七)から中条氏と黒川氏の係争地であった(文明一二年一二月一八日「中条朝資書状案」同文書)


宮瀬村
みやぜむら

[現在地名]可児市下恵土しもえど

前波まえなみ村の西、蛇行して南西へ流れる可児川北岸にある。慶長郷帳などには(荏)上下として一括される。徳野藩領。岩瀬文庫本正保郷帳では下江渡しもえど村一千九一五石余のうち。元禄郷帳に村名がみえる。承応二年(一六五三)以降幕府領。安永七年(一七七八)の村明細帳(恵土文書)によれば田六町二反余・畑五町七反余、家数二六(高持一九・水呑七)・人数八四、馬二。用水は可児川から引くほか、溜池二ヵ所を利用。伏見ふしみ宿(現可児郡御嵩町)への助郷高は九一石(元禄七年「伏見宿・太田宿助郷帳」奥村文書)


宮瀬村
みやぜむら

[現在地名]高梁市巨勢町こせちよう

片岡かたおか村の西に位置し、宮瀬のほか和名谷わなだに其尾そのお(園尾)などの集落が、祇園ぎおん(五五〇メートル)南麓から流れ出る和名谷・宮瀬谷の流域に点在する。寛永備中国絵図では古瀬こせ村に含まれ、古瀬宮瀬村ともいう。正保郷帳には古瀬を冠した九村が載るが、うち古瀬三吉村・古瀬小条村がほぼのちの当村に当たるとみられる。古瀬三吉村は高一五四石余、松山藩領、芝草山中とあり枝村に宮瀬村がある。古瀬小条村は高一三一石余、松山藩領、宮林少・雑木少・芝草山大とあり、枝村に祇園村をあげる。小条村は其尾一帯、祇園村は和名谷一帯に当たるとされる。元禄八年(一六九五)の旧松山領新高帳(羽場文書)に宮瀬村とみえ、古高四五一石余・新高五八五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

発見学習

発見という行為の習得を目指す学習。または,発見という行為を通じて学習内容を習得することを目指す学習。発見学習への着想は多くの教育理論に認められるが,一般には,ジェローム・S.ブルーナーが『教育の過程』...

発見学習の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android