仁明天皇(読み)ニンミョウテンノウ

デジタル大辞泉 「仁明天皇」の意味・読み・例文・類語

にんみょう‐てんのう〔ニンミヤウテンワウ〕【仁明天皇】

[810~850]第54代天皇在位833~850。嵯峨天皇の第2皇子。名は正良まさら深草帝とも称する。在位中に令義解りょうのぎげの施行、日本後紀編集などが行われた。

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精選版 日本国語大辞典 「仁明天皇」の意味・読み・例文・類語

にんみょう‐てんのうニンミャウテンワウ【仁明天皇】

  1. 第五四代天皇。名は正良(まさら)嵯峨天皇の第一皇子。母は皇后橘嘉智子。天長一〇年(八三三即位。「令義解」の施行や「日本後紀」四〇巻の編修などはこの時代である。御陵を深草陵というので、深草帝ともいう。「経国集」に御製詩一首がある。弘仁元~嘉祥三年(八一〇‐八五〇

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改訂新版 世界大百科事典 「仁明天皇」の意味・わかりやすい解説

仁明天皇 (にんみょうてんのう)
生没年:810-850(弘仁1-嘉祥3)

第54代に数えられる天皇。在位833-850年。名は正良。嵯峨天皇と皇后橘嘉智子の間に生まれる。823年(弘仁14)叔父淳和天皇皇太子となり,833年(天長10)淳和天皇の譲位によって位につく。父嵯峨上皇の家父長的権威のもとに,政情は安定を続け,弘仁・天長年間(810-834)に発達した唐風儀礼や漢詩文の文化は,この天皇の承和年間(834-848)に最盛期を迎えた。842年(承和9)7月,嵯峨上皇の死に際して承和の変が起こり,皇太子恒貞親王(淳和天皇の皇子)が廃され,天皇と藤原冬嗣の女順子との皇子,道康親王(のち文徳天皇)が立太子したが,その後政情はまた平穏で,天皇40歳の算賀行事は盛大をきわめた。《続日本後紀》はこの一代18年間を記した正史で,869年(貞観11)完成をみた。その陵である深草陵により,深草帝(ふかくさのみかど)とよばれる。
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百科事典マイペディア 「仁明天皇」の意味・わかりやすい解説

仁明天皇【にんみょうてんのう】

平安初期の天皇。在位833年−850年。諱(いみな)は正良(まさら)。深草帝ともよばれる。嵯峨天皇の第1皇子,母は橘嘉智子。833年淳和(じゅんな)天皇の譲位により即位。嵯峨上皇の家父長的権威の下,政情は安定していたが,嵯峨・淳和両上皇没後,承和(じょうわ)の変が起こった。869年に成立した《続日本後紀》は仁明朝18年間を記した正史。
→関連項目伴健岑

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朝日日本歴史人物事典 「仁明天皇」の解説

仁明天皇

没年:嘉祥3.3.21(850.5.6)
生年:弘仁1(810)
平安前期の天皇。嵯峨天皇と皇后橘嘉智子(清友の娘)の子。諱は正良。深草天皇とも。弘仁14(823)年,14歳で立太子,天長10(833)年即位し,淳和皇子恒貞親王を皇太子としたが,承和の変(842)により,藤原冬嗣の娘順子との間に生まれた道康(のちの文徳天皇)がかわって皇太子とされた。学問を好み,老荘の説や『群書治要』などを通覧,ことに漢音では清音と濁音が区別できるほど精通していたという。また多芸で知られ,弓射をはじめ鼓琴吹管をよくし,書も淳和天皇の草書を学んで両者の区別がつかないほどであったと伝える。生来病弱なこともあって医学にも詳しく,薬の調合に至ってはいかなる名医も異論を立てられなかったといい,また非難をさけるために,調合した薬が死因でないことを認めさせたうえで没している。生前居所とした清涼殿で亡くなったが,翌年子の文徳天皇によって解体,陵(京都市伏見区深草)のかたわらに移建され,時の年号をとって嘉祥堂と呼ばれた。これは平安期における清涼殿建て替えの初例。

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「仁明天皇」の解説

仁明天皇 にんみょうてんのう

810-850 平安時代前期,第54代天皇。在位833-850。
弘仁(こうにん)元年生まれ。嵯峨(さが)天皇の皇子。母は橘嘉智子(たちばなの-かちこ)(檀林皇后)。淳和(じゅんな)天皇の譲位で即位。淳和天皇の皇子恒貞(つねさだ)親王を皇太子としたが,伴健岑(ともの-こわみね),橘逸勢(たちばなの-はやなり)らが皇太子を奉じて謀反をくわだてた(承和(じょうわ)の変)として廃し,子の道康親王を皇太子とした。嘉祥(かしょう)3年3月21日死去。41歳。墓所は深草陵(ふかくさのみささぎ)(京都市伏見区)。別名は正良(まさら)親王,深草帝。
【格言など】いつのまに厭ふ心をかつ見つつ蓮(はちす)にをるは我が身なるらむ(「新拾遺和歌集」)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁明天皇」の意味・わかりやすい解説

仁明天皇
にんみょうてんのう

[生]弘仁1(810).京都
[没]嘉祥3(850).3.21. 京都
第 54代の天皇 (在位 833~850) 。名,正良。嵯峨天皇の皇子。母は橘嘉智子。弘仁 14 (823) 年淳和天皇の皇太子となり,天長 10 (833) 年3月6日即位,淳和天皇の皇子恒貞親王を皇太子に立てた。しかし承和9 (842) 年承和の変により藤原氏の出でない親王は皇太子を廃され,藤原北家の政権独占の端を開くこととなった。経史のほか医書にも造詣が深く,また詩文,書法,管弦などをよくした。『経国集』に詩1首が入集。陵墓は京都市伏見区深草東伊達町の深草陵。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「仁明天皇」の意味・わかりやすい解説

仁明天皇
にんみょうてんのう
(810―850)

第54代の天皇(在位833~850)。名は正良(まさなが)。父は嵯峨(さが)天皇。母は皇后橘嘉智子(たちばなのかちこ)。823年(弘仁14)立太子。833年(天長10)即位。性聡明で経史に没頭、講誦して倦(う)まず、漢音に通じ、『群書治要』をはじめ多くの書を読み、文藻を愛し、書をよくし、淳和(じゅんな)天皇の草書を学んだ。『経国集』に詩一編が残る。弓をよく射、音楽にも優れ、医学に関心が深かった。内嬖(ないへい)が多く、ぜいたくを好んで、財を浪費した。嘉祥(かしょう)3年3月21日崩御。御陵は京都市伏見区深草にある深草陵。

[横田健一]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「仁明天皇」の解説

仁明天皇
にんみょうてんのう

810~850.3.21

在位833.2.28~850.3.21

深草帝とも。嵯峨天皇の第1皇子。名は正良(まさら)。母は橘清友の女嘉智子。823年(弘仁14)淳和(じゅんな)天皇の皇太子に立ち,833年(天長10)譲位をうけて践祚(せんそ)した。皇太子にははじめ恒貞(つねさだ)親王(淳和天皇の皇子)を立てたが,842年(承和9)これを廃し(承和の変),長子(文徳天皇)の立太子を実現した。出家して2日後,在位のまま死去。

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世界大百科事典(旧版)内の仁明天皇の言及

【続日本後紀】より

…20巻。仁明天皇1代,833年(天長10)から850年(嘉祥3)にいたる18年間の歴史を記す。文徳天皇の命により,藤原良房,春澄善縄らが編纂にあたり,清和天皇の869年(貞観11)に完成奏上。…

※「仁明天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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