中条町(読み)なかじようまち

日本歴史地名大系 「中条町」の解説

中条町
なかじようまち

[現在地名]中条町中条・おもて町・水沢みずさわ町・新栄しんえい町・大川おおかわ町・ほん町・西栄にしさかえ町・北本きたほん町・東本ひがしほん町・西本にしほん

東南に櫛形くしがた山脈が連なり、米沢街道が南北に通る。東は小荒川こあらかわ村、西・北は加賀新かがしん村、南は上・下の長橋ながはし村に接する。嘉元二年(一三〇四)一二月二六日の関東下知状案(山形大学所蔵中条家文書)に「中条」とみえる。永仁二年(一二九四)六月一二日の瑠璃御前宛三浦和田茂連譲状(山形大学所蔵中条家文書)にみえる「駒籠之酒町」は字駒込こまごめ(現羽越本線中条駅付近)に比定される。また同日付八郎茂泰宛茂連譲状案(同文書)の「七日市之南町屋」を当町中心部に比定する説もある。あるいは近世の中条町は中世奥山おくやま庄の石曾禰いしそね条・政所まんどころ条付近にあたるとも考えられるが未詳。近世ははじめ村上藩領。宝永六年(一七〇九)以降幕府領。正保国絵図では高六一四石余。万治二年(一六五九)検地帳(大沼安在氏蔵)によれば高六三四石三斗余・田四三町八反七畝余・畑屋敷一六町一反余で屋敷名請人は三八名。正徳三年(一七一三)の中条組二十一ケ村明細帳(新潟大学蔵)では小物成上納として山手船頭米・請売酒屋役・紺屋役米・大豆納・荏定納・漆木役銀・桶屋役銀などがあげられる。用水は胎内たいない川堰・升川二口ますかわふたくち堰・宮前みやまい川堰・鶴田つるた川堰を利用する。家数八三(うち本百姓九)・人数四〇四・馬一〇・犬二で、社家は二軒・一三人。

中条町
なかじようまち

面積:八五・六七平方キロ

北蒲原郡の北端に位置し、東は櫛形くしがた山脈、西は日本海に沿って砂丘が連なり、中央部は胎内たいない川扇状地と旧紫雲寺しうんじ潟干拓地からなる。南は加治川かじかわ村・紫雲寺町、東は黒川くろかわ村、北は岩船郡荒川あらかわ町に接する。平安末期以来奥山おくやま庄の中心で、開発領主城氏滅亡後は三浦和田氏が同庄地頭に任ぜられた。建治三年(一二七七)三浦和田氏の高井道円時茂は奥山庄を三人の孫に分割して譲与し、このうち茂連の与えられた所領がのち「中条」と称された。「中条」の名は嘉元二年(一三〇四)一二月二六日の関東下知状案(山形大学所蔵中条家文書)にみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報