日本歴史地名大系 「富浜塩田」の解説
富浜塩田
とみはまえんでん
延宝五年(一六七七)尾道町の南対岸、
栗原沖浜四軒のうち一軒は元禄一〇年、一軒は同一四年に荒浜となった。また元禄一〇年向島西村
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
延宝五年(一六七七)尾道町の南対岸、
栗原沖浜四軒のうち一軒は元禄一〇年、一軒は同一四年に荒浜となった。また元禄一〇年向島西村
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…向島は古代の歌島(うたのしま)郷(《和名抄》)の地に比定され,中世には大炊寮(おおいりよう)領歌島荘となっており,塩年貢を納めていた。南部の高見山(283m)を中心に丘陵や台地が広がるが北部は平地で,江戸時代には城下の豪商天満屋によって富浜塩田が開かれ,昭和30年代まで製塩業が続けられた。温暖な気候にめぐまれてかんきつ類や野菜,花卉が栽培されている。…
※「富浜塩田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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