日本歴史地名大系 「向島町」の解説 向島町むかいじまちよう 三重県:上野市上野城下向島町[現在地名]上野市向島町本町(ほんまち)筋の西端にあり、東は西(にし)町。町並の北側裏は外堀。宝永六年(一七〇九)の東使監藩問対案(宗国史)にみえる町名。西の突当りは崖で行止りのため、もとの加太(かぶと)越奈良道は外堀に沿って北進し、西之丸(にしのまる)の武家屋敷町を通っていたが、延宝四年(一六七六)当町西方の幸福(こうふく)寺の小丘陵を切開いて新道が作られ(永保記事略)、馬苦労(ばくろ)町に通じた。当町の西の崖は坂となり幸(こう)坂とよばれ、その境界に元禄一三年(一七〇〇)釘貫門が作られ、門番が置かれ(同書)、城下への出入りを警固した。この門は松煙墨で黒く塗装されていたため俗称黒(くろ)門とよばれた。頼山陽が「上野黒門是寛永年中渡辺氏復仇処、伊賀城頭西閭門」と詠んだが、実際の渡辺数馬の伊賀越仇討の地はここより北西三〇〇メートルの所である。 向島町むかいしまちよう 広島県:御調郡向島町面積:一八・五八平方キロ尾道市の対岸向島の西部三分の二と、その西にある岩子(いわし)島からなる。町の北は尾道大橋架橋に伴い昭和四三年(一九六八)から陸続きとなった尾道市に面し、東は昭和四五年尾道市に編入された尾道市向東(むかいひがし)町に接する。また向島と岩子島は、昭和四三年向島大橋架橋によって陸続きになった。向島南部の高見(たかみ)山(二八三・二メートル)を最高峰とし、所々に丘陵状の小起伏があるが、町内はおおむね台地状をなし、北方海岸に平地がある。江戸時代以来多くの塩田が開発され向島の代表的産業であったが、昭和三五年廃止された。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by