日本歴史地名大系 「竹原塩田」の解説
竹原塩田
たけはらえんでん
その後、分け浜(塩浜の統廃合)が行われ、寛文四年(一六六四)には八五軒、当時の塩浜高は一一四六・二二一石、面積六〇町九反五畝一二歩(元禄三年塩浜開起之縁起、元禄六年竹原下市一邑志「竹原市史」所収)。小浜に比べて大浜が有利であったため、その後も分け浜が進行、竹原市立図書館蔵の塩浜関係史料によると享保一〇年(一七二五)には七二軒、安永九年(一七八〇)には五三軒となっている。その後、天保四年(一八三三)七軒前・一三町七反一畝の新浜が築調されている。
この竹原塩田は、芸備地方での最初の入浜塩田というばかりでなく、入浜技術の伝播の面からも中部瀬戸内塩田の源流をなし、備後国
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報