改訂新版 世界大百科事典 「寧夏の乱」の意味・わかりやすい解説
寧夏の乱 (ねいかのらん)
中国,明の中期に安化王朱寘鐇(しゆしはん)が起こした反乱。寘鐇は洪武帝の第16子(せん)の曾孫で,1492年(弘治5)に安化王の位をついだ。生来狂気の性分があったとされ,帝位を望んで反乱を企て,寧夏衛の生員(学生)孫景文らと交わっていた。たまたま1510年(正徳5),宦官劉瑾(りゆうきん)が大理寺少卿周東を遣わして寧夏の屯田を測量し,租税の増徴をはかって将卒の憤激を買うと,寘鐇はこの機をとらえて劉瑾の罪状を数え,君側の奸を除くことを名として兵を挙げた。朝廷では前右都御史楊一清を起用して提督とし,京営(中央軍)の兵を率いて討伐に向かわせたが,これよりはやく現地では,参将仇鉞(きゆうえき)の奇計が功を奏し,反乱はわずか18日で終息,寘鐇は北京に送られて殺され,仇鉞は咸寧伯に封ぜられた。この反乱は,1519年に起こった寧王の乱と同じく王族の起こした反乱で,正徳帝の遊興と劉瑾ら宦官による政治の腐敗に根本的な原因がある。
執筆者:谷 光隆
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