改訂新版 世界大百科事典 「寧王の乱」の意味・わかりやすい解説
寧王の乱 (ねいおうのらん)
中国,明代中期の王族,寧王朱宸濠(しゆしんごう)の反乱。洪武帝の第17子権ははじめ北京東北の大寧に封ぜられて寧王と称したが,永楽帝のとき江西の南昌に封を移され,その5世の孫である朱宸濠は,1499年(弘治12)寧王となった。寧王府は天順年間(1457-64)から護衛を除かれていたが,朱宸濠は皇帝の側近に賄賂を贈ってこれを回復し,以来付近の地方官を弾圧し,民間の田宅を奪い,無頼の徒を集め,武器を製造して,まさに帝位を乗っ取ろうとした。このため1519年(正徳14),朝廷が特使を派遣することに決すると,ついに兵を起こして南康,九江を陥れ,ついで安慶を囲んだ。このとき提督南贛(なんこう)汀漳軍務副都御史であった王守仁(陽明)は,変を聞いて南昌を攻め,朱宸濠はこれと戦って敗れたので,乱は42日で平定されたが,後日正徳帝は南京にまで親征し,その帰途朱宸濠は通州で殺された。この事件は,正徳帝が遊興にふけり政治が乱れた時の反映である。
→寧夏の乱
執筆者:谷 光隆
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