辺境や新開地あるいは戦乱災害等による荒廃地に,兵士もしくは移住民を招来し開墾耕営に従事させ,収穫を官に納めて軍糧に供し,あるいは蓄積に充て,住民の安定と国庫の充実をめざす中国歴代の土地政策,またその耕地をいう。主体が兵士によるものを軍屯,一般民を主とするものを民屯とよび,唐・宋代には営田の語も互用された。屯田は官田の一種であり,屯兵・屯民にはおおむね一定面積が割り当てられ,種子,役畜,農具は官給,収穫の大部分を官収するのを基本とするが,年を経て家族をもち定着するにつれて田地私有化の傾向を生じ,民田に移行することが多かった。
屯田は歴代行われたが,重要な役割を演じたのは前漢・曹魏・唐・金・元・明代であった。前漢武帝は匈奴に対し積極策をとり,甘粛回廊に4郡を設置し,前111年(元鼎6)西北各地に田官をおき,辺境の兵士60万人を守備と耕田に従事させ,大規模な屯田政策を開始した。その後西域への進出につれ,新疆各地の輪台,渠犂,車師前部,交河城,烏孫赤谷城,伊循等に屯田を開き,往来する使者の食糧確保に資した。今世紀に敦煌,居延等出土の漢代木簡には田卒による屯田の実状を記すものが多く見いだされる。今日のトゥルファン(吐魯番)盆地は,漢代の車師(高昌),交河等の屯田が基となり,漢族の居住地として成長した顕著な例である。漢末の混乱により流亡疲弊した国土を再建するため,曹操は196年(建安1),許下に屯田を開き穀100石を得,のち各地に拡充して典農中郎将,校尉以下屯官を設け,中央の司農卿の管轄下に農産に努めた。典農部民,屯田客などとよばれる屯民は,官牛を給される者が収穫の6割,私牛をもつ者が5割を官に入れ,曹魏の国力充実に大きな貢献をした。魏末・晋初の咸煕・泰始年間(264-266)に典農部屯田は廃止され,一般州郡に組み入れられて屯民の負担も一般民なみとなった。
唐代の〈田令〉は,司農寺所属の内地の屯田は20~30頃(けい),州鎮の諸軍に属する辺地の屯田は50頃を1屯とし,尚書省の処分により荒閑無籍広占の地を取って設置せよと規定し,屯官は収穫の多寡に応じ成績評定された。土軟処では1頃50畝,土硬処では1頃20畝,稲田では80畝にそれぞれ1頭の割で耕牛を配す等の細目まで〈田令〉に定められていた。開元(713-741)の盛時には全国で992屯を算し,河西隴右206屯の歳入60万石,天宝8載(749)天下の屯収191万余石と伝える。唐後期には営田に雇用労働を使用する例が目だち,宋代では弓箭手による北辺の営田のほか,南宋では佃戸に小作させるのが一般となる。金・元でも民田を没収して大規模な屯田が行われ,漢族を小作人として収奪につとめた。明では衛所屯田を主とし,1兵50畝,正糧12石,余糧12石徴収が基準であった(衛所制)。その他塩商が北辺で民を募って屯田させ,穀を納めて塩引を支給される商屯や民戸の民屯も行われた。清では漕運路沿いに衛所屯田が残され,辺地で屯墾が行われるにとどまった。
執筆者:池田 温
倭政権の大王の地位に付属する田地。令制下にも残存した。《日本書紀》仁徳即位前紀によると,垂仁天皇のときに太子大足彦(おおたらしひこ)尊(のち景行天皇)に命じて〈倭の屯田〉を定め,〈屯田司〉によって管理させたという。《古事記》景行段にも〈倭の屯家(みやけ)〉を定めたとある。しかし管理人を派遣する方式は新しいもので,垂仁~仁徳天皇当時のものとすることはできない。この〈倭の屯田〉をはじめ畿内地方にあった〈屯田〉の後身が大宝令制下の屯田(養老令では官田)と考えられる。これは天皇の供御稲をつくる田で,養老令では,大和・摂津各30町,河内・山背各20町の計100町であった。宮内省の所属官司の伴部,使部から任じられる屯司(養老令では田司)が派遣されたが,《日本書紀》の壬申の乱の記事にみえる〈屯田司〉はその前身であろう。また大化2年(646)3月辛巳条によると,官司にも〈屯田〉が付属していたことがうかがえる。
→御稲田(みいねだ) →屯倉(みやけ)
執筆者:栄原 永遠男
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律令(りつりょう)国家成立以前の皇室直轄領屯倉(みやけ)に伴う田地をいう。屯倉には、農民を田部(たべ)に編成して耕作させ、田令(たづかい)などの管理者を置く直接経営のものがあり、この種の屯倉に伴う田地を屯田という。『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇即位前年条には、倭(やまと)の屯田が代々の天皇のための領地であることが述べられ、その管理者は屯田司(みたのつかさ)とよばれたことがわかる。奈良時代に入ると、屯田は官田とよばれるようになり(大宝令(たいほうりょう)では屯田(とんでん))、大和(やまと)、摂津(せっつ)に各30町、河内(かわち)、山背(やましろ)(城)に各20町の官田があって、田司がその経営にあたり、農民が耕作した。
[原島礼二]
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…しかし明末になると,内地の各所にも総兵官が配置されるようになる。 ところで初期の経済政策の一環として,軍隊にも自給自足が求められ,その手段として衛所には屯田が設定された。これを兵士に配分して耕作させ,その収入をもって軍隊の経費にあてたのである。…
…(1)養老令制で,畿内4国に設置された天皇供御(くご)の食料田。大化前代の屯田(みた),御宅(みやけ)等の系譜を引くもので,大宝令では屯田というが,三宅田(《延喜式》)とも称された。大和,摂津,河内,山背国に設置された,宮内省が管理する総計100町の水田で,宮内省所管諸司の伴部,使部等が田司(大宝令は屯司)として派遣されて経営にあたり,班田農民の雑徭によって耕作された。…
…宮内省大炊寮の所管する供御(くご)田。大宝令では,〈供御造食料田〉を屯田(みた)と名づけて畿内に分置し,宮内省より屯司を差遣して営造に当たらせると定めたが,養老令では,官田・田司と改称し,大和・摂津両国に各30町,河内・山背両国に各20町,計100町の官田を置くと定めた。ついで平安遷都後,《延喜式》の制では,山城20町,大和16町,河内18町,和泉2町,摂津30町,計86町の官田を配置し,それを国営田46町と省営田40町に分けて,天皇の供御および中宮・東宮の年料の稲・粟・糯は宮内省営田の収穫をもって充てることとした。…
※「屯田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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