屯田(読み)みた

  • とんでん
  • 屯田 tún tián

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大化以前の皇室直轄地。のちには官司の料をもこう呼んだ。屯田を耕作する農民田部 (たべ) ,その管理者を田令 (たづかい) ,収穫物収納庫を屯倉 (みやけ) といい,分布は畿内またはその周辺に限られたといわれる。大化改新により廃止

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百科事典マイペディアの解説

中国で,国家が辺境または新領土守備の兵士に荒地を耕作させ,食糧の自給自足を図る制度。武帝のとき始められた。三国時代のでは曹操により盛んに行われ,内地でも行われるようになった。周辺防備,国家財政に重要であったので専任官も置かれた。唐・宋では営田と称した。16世紀以後次第に消滅。なお,日本古代の大化以前に天皇直轄領や官司付属の田を〈屯田(みた)〉と称した。
→関連項目均田法
倭(やまと)政権の大王地位に付属する田地。《日本書紀》によると垂仁天皇のときの屯田・屯倉(みやけ)を定めた。屯田は屯倉のうちの田地をさし,屯田司に管理させたという。646年の記事によれば官司にも屯田が付属していたらしい。畿内にあった屯田は,律令制下の天皇の供御(くご)稲を作る官田につながると考えられる。
→関連項目屯倉

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世界大百科事典 第2版の解説

辺境や新開地あるいは戦乱災害等による荒廃地に,兵士もしくは移住民を招来し開墾耕営に従事させ,収穫を官に納めて軍糧に供し,あるいは蓄積に充て,住民の安定と国庫の充実をめざす中国歴代の土地政策,またその耕地をいう。主体が兵士によるものを軍屯,一般民を主とするものを民屯とよび,唐・宋代には営田の語も互用された。屯田は官田の一種であり,屯兵・屯民にはおおむね一定面積が割り当てられ,種子役畜農具は官給,収穫の大部分を官収するのを基本とするが,年を経て家族をもち定着するにつれて田地私有化の傾向を生じ,民田に移行することが多かった。
倭政権の大王の地位に付属する田地。令制下にも残存した。《日本書紀》仁徳即位前紀によると,垂仁天皇のときに太子大足彦(おおたらしひこ)(のち景行天皇)に命じて〈倭の屯田〉を定め,〈屯田司〉によって管理させたという。《古事記》景行段にも〈倭の屯家(みやけ)〉を定めたとある。しかし管理人を派遣する方式は新しいもので,垂仁~仁徳天皇当時のものとすることはできない。この〈倭の屯田〉をはじめ畿内地方にあった〈屯田〉の後身が大宝令制下の屯田(養老令では官田)と考えられる。

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大辞林 第三版の解説

辺境に兵士を土着させ、平時には農業を行わせ、有事の際には軍隊に動員する制度。
古代の皇室の領田。みた。
平安時代、鎮守府のために陸奥むつ国に置かれた田地。
中国で、国家が耕作者を集団的に定住させて耕作させた新領地あるいは未開墾の土地。耕作者が兵士の場合を軍屯、一般民の場合を民屯という。
主税寮の唐名。
明治初期、屯田兵のための土地。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

律令(りつりょう)国家成立以前の皇室直轄領屯倉(みやけ)に伴う田地をいう。屯倉には、農民を田部(たべ)に編成して耕作させ、田令(たづかい)などの管理者を置く直接経営のものがあり、この種の屯倉に伴う田地を屯田という。『日本書紀』仁徳(にんとく)天皇即位前年条には、倭(やまと)の屯田が代々の天皇のための領地であることが述べられ、その管理者は屯田司(みたのつかさ)とよばれたことがわかる。奈良時代に入ると、屯田は官田とよばれるようになり(大宝令(たいほうりょう)では屯田(とんでん))、大和(やまと)、摂津(せっつ)に各30町、河内(かわち)、山背(やましろ)(城)に各20町の官田があって、田司がその経営にあたり、農民が耕作した。[原島礼二]

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精選版 日本国語大辞典の解説

〘名〙
① 令制前、大王の御料田。大宝令制では畿内の諸国に置かれた天皇の供御のための百町の田。宮内省が管轄し、農民の徭役により耕作された。養老令では官田と名を変えた。御田(みた)
※令集解(701)田「古記云。畿内置屯田。不輸租。屯田。謂御田。供御造食料田耳」
② 平安時代、鎮守府のために陸奥国に置かれた田地。二百町(のち三百町)を置き、その地子を鎮守府の備蓄とした。
※三代格‐一五・延暦一五年(796)一二月二八日「右被大納言正三位紀朝臣古佐美宣偁。奉勑。屯田地子。自今以後。宜町別准稲廿束輸」
③ 主税寮(しゅぜいりょう)の唐名。〔職原鈔(1340)〕
④ 北海道の警備・開拓のために設置された屯田兵のための土地。
※屯田兵下士兵卒たりし者の服役に関する制(明治三七年)(1904)一条「屯田兵条例廃止の際に於ける屯田各兵下士兵卒は」
⑤ 中国で、漢代以降の歴朝に行なわれた土地制度。漢代には辺境に置く兵士に耕作も行なわせ、軍糧の確保をはかった。その後、複数王朝対立の時期や、内戦の時には内地にも置かれた。〔漢書‐昭帝紀〕

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旺文社日本史事典 三訂版の解説

大化の改新以前の大王家直轄地
中央派遣の田令 (たづかい) により管理され,耕作民は田部 (たべ) ・钁丁 (くわよぼろ) と呼ばれた。収穫物を屯倉 (みやけ) におさめた。畿内に多かったが,大化の改新で廃止され,律令制下では官田となった。

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世界大百科事典内の屯田の言及

【明】より

…しかし明末になると,内地の各所にも総兵官が配置されるようになる。 ところで初期の経済政策の一環として,軍隊にも自給自足が求められ,その手段として衛所には屯田が設定された。これを兵士に配分して耕作させ,その収入をもって軍隊の経費にあてたのである。…

【官田】より

…(1)養老令制で,畿内4国に設置された天皇供御(くご)の食料田。大化前代の屯田(みた),御宅(みやけ)等の系譜を引くもので,大宝令では屯田というが,三宅田(《延喜式》)とも称された。大和,摂津,河内,山背国に設置された,宮内省が管理する総計100町の水田で,宮内省所管諸司の伴部,使部等が田司(大宝令は屯司)として派遣されて経営にあたり,班田農民の雑徭によって耕作された。…

【御稲田】より

…宮内省大炊寮の所管する供御(くご)田。大宝令では,〈供御造食料田〉を屯田(みた)と名づけて畿内に分置し,宮内省より屯司を差遣して営造に当たらせると定めたが,養老令では,官田・田司と改称し,大和・摂津両国に各30町,河内・山背両国に各20町,計100町の官田を置くと定めた。ついで平安遷都後,《延喜式》の制では,山城20町,大和16町,河内18町,和泉2町,摂津30町,計86町の官田を配置し,それを国営田46町と省営田40町に分けて,天皇の供御および中宮・東宮の年料の稲・粟・糯は宮内省営田の収穫をもって充てることとした。…

※「屯田」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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