日本大百科全書(ニッポニカ) 「寺田正重」の意味・わかりやすい解説
寺田正重
てらだまさしげ
(1618―1674)
近世初期の柔術家。雲州松江藩の直心(じきしん)流柔術(のち柔道直信(じゅうどうじきしん)流と改称)の祖。通称勘右衛門、のち満英(みつひで)。寺田氏は若狭(わかさ)国小浜(おばま)の京極高次(きょうごくたかつぐ)の家臣。1634年(寛永11)高次の没後、子忠高は松江に移封、さらに忠高の急逝によって除封となり、正重は浪人の悲運にあったが、松平直政に採用され松江にとどまった。幼少より父平右衛門定安(さだやす)に貞心(ていしん)流軍陣和(ぐんじんやわら)術を、ついで京都の叔父八右衛門頼重に茨木(いばらき)専斎の起倒(きとう)流乱(みだれ)を学び、自ら考案した無拍子(むびょうし)の理をもって取形を表十四形、裏七形に改編し、「起倒流兵法鎧組討(へいほうよろいくみうち)」と名づけ、作州津山藩の吉村兵助扶寿(よしむらひょうすけすけなが)に伝授した。のち僧沢庵(たくあん)の不動智(ふどうち)の妙理を加えて、直心流柔術と称した。
[渡邉一郎]