京極高次(読み)キョウゴクタカツグ

デジタル大辞泉 「京極高次」の意味・読み・例文・類語

きょうごく‐たかつぐ〔キヤウゴク‐〕【京極高次】

[1563~1609]安土桃山・江戸初期の武将。妻は豊臣秀吉側室淀君の妹。織田信長、のち豊臣秀吉に仕え、九州征伐などに従軍近江おうみ大津城主。関ヶ原の戦いでは東軍につき、若狭小浜8万5千石の城主となる。

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精選版 日本国語大辞典 「京極高次」の意味・読み・例文・類語

きょうごく‐たかつぐ【京極高次】

  1. 安土桃山・江戸初期の武将。幼名小法師丸。通称小兵衛。近江の人。織田信長に仕え、本能寺の変のとき明智光秀に加担したが、のち許されて豊臣秀吉に属する。関ケ原の戦いでは徳川方につき、若狭小浜八万五千石を受領。永祿六~慶長一四年(一五六三‐一六〇九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「京極高次」の意味・わかりやすい解説

京極高次
きょうごくたかつぐ
(1563―1609)

安土(あづち)桃山~江戸前期の大名。高吉(たかよし)の長子。幼年期は京極氏が浅井氏の配下にあったため、人質生活を送ったが、1573年(天正1)浅井氏の滅亡により織田信長に仕え、5000石を与えられた。82年(天正10)本能寺(ほんのうじ)の変に際し、明智光秀(あけちみつひで)を後援したため羽柴(はしば)(豊臣(とよとみ))秀吉に追われ、越前(えちぜん)の柴田勝家(しばたかついえ)、次に若狭(わかさ)の武田元明(もとあき)を頼った。勝家、元明の2人は相次いで秀吉に滅ぼされたが、高次は、秀吉が元明の妻であった妹(松丸殿)を側室にしたので許され、84年(天正12)近江(おうみ)高島郡で2500石を与えられた。その後、秀吉の九州征伐(1587)、小田原征伐(1590)、さらに文禄(ぶんろく)の役(1592~93)に従軍して、95年近江大津6万石に加増された。秀吉の死後、徳川家康につき、関ヶ原の戦いで大津城に籠城(ろうじょう)した。その功により、若狭小浜(おばま)8万5000石、翌年加増して9万2000石を領した。なお、母はオルガンティノに受洗した京極マリアで、高次も晩年は信徒になったという。また、室の初(はつ)は淀殿(よどどの)の妹である。慶長(けいちょう)14年5月3日、小浜で没した。法名は泰雲院殿徹宗道閑。

[宮島敬一]

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改訂新版 世界大百科事典 「京極高次」の意味・わかりやすい解説

京極高次 (きょうごくたかつぐ)
生没年:1563-1609(永禄6-慶長14)

安土桃山時代の武将。若狭小浜藩主。近江国小谷に生まれる。織田信長への人質となり,浅井氏滅亡後信長に仕える。本能寺の変のあと明智光秀に従い長浜城を攻めたため羽柴秀吉に追われる。しかし,妹が秀吉の侍妾(松丸殿)となったことで,近江高島郡で2500石を得,その後たびたび加増され,関ヶ原の合戦時には,近江大津城主として6万石を領した。関ヶ原の戦に際しては,東軍に属し,大津城にこもったが,東軍の関ヶ原での大勝の前日開城し,高野山へ入った。戦後,高次の妻(浅井長政の次女)が,徳川秀忠の妻(崇源院)の姉であったことも幸いし,若狭8万5000石を与えられ,翌1601年近江高島郡に7000石を加増された。
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朝日日本歴史人物事典 「京極高次」の解説

京極高次

没年:慶長14.5.3(1609.6.4)
生年:永禄6(1563)
安土桃山時代の武将。近江国小谷(滋賀県東浅井郡湖北町)で生まれる。幼少のころ,織田信長の人質として岐阜にいたが,浅井氏滅亡以降,信長から所領をあてがわれ,伊賀国出陣などに同行した。天正10(1582)年の本能寺の変では明智光秀にくみしたが,光秀没後は妹婿の若狭の武田元明を頼った。しかし元明は豊臣秀吉に殺され,その妻は秀吉の側室(松丸殿)となった。これにより,高次は秀吉から免罪され,近江高島郡内に2500石を与えられた。以降,近江国内の大溝城,八幡山城主となり,文禄4(1595)年には大津城主として6万石の大名に成長した。なお高次の妻はつ(常高院)は淀殿の妹であり,高次が閨閥関係を軸にして京極家を再興したことが知られる。秀吉の死後は徳川家康に従い,関ケ原の戦のときには大津城に籠城して西軍と合戦におよんだが,力尽き降伏ののち高野山に出奔した。しかし家康からは表彰されて,若狭国小浜8万石を与えられ,そこで生涯を終えた。

(宇野日出生)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「京極高次」の意味・わかりやすい解説

京極高次
きょうごくたかつぐ

[生]永禄6(1563).近江,小谷
[没]慶長14(1609).5.3. 若狭,小浜
安土桃山時代の武将。本姓は佐々木。もとは近江半国の守護。浅井氏に領土を奪われてからこれに服属し,浅井氏滅亡後,織田信長に仕え,本能寺の変後,明智光秀にくみしたため,豊臣秀吉に追われたが,妹を秀吉の側室に差出すことで許された。関ヶ原の戦いでは徳川軍に味方。大津城にこもったが,西軍の立花宗茂らに攻められて降伏,剃髪して高野山に入った。しかし,妻が徳川秀忠の義姉であった関係などで,戦後若狭国に8万 5000石を与えられ,のちには加増されて9万 2000石となった。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「京極高次」の解説

京極高次 きょうごく-たかつぐ

1563-1609 織豊-江戸時代前期の大名。
永禄(えいろく)6年8月生まれ。京極高吉(たかよし)・京極マリアの長男。織田信長につかえる。本能寺の変後明智光秀に属したが,妹が豊臣秀吉の側室(松丸殿)になった縁でゆるされて,近江(おうみ)(滋賀県)大津城主。関ケ原の戦いで徳川方につき,慶長6年若狭(わかさ)(福井県)小浜(おばま)藩主京極家初代。9万2000石。慶長14年5月3日死去。47歳。

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世界大百科事典(旧版)内の京極高次の言及

【大津[市]】より

…また北陸敦賀へ通じる北国街道も市街を貫通しており,東海道(市街では場所により八町通り,京町通りと呼称)との分岐点は高札場となっていて札の辻と呼ばれていた。さて1600年(慶長5)の関ヶ原の戦を前にして,東軍についた大津城主京極高次は,籠城戦で西軍の進撃を阻止し,徳川家康に勝利をもたらす。この籠城戦によって大津は焦土と化し,城は膳所へ移転したが(天守閣のみは彦根城に利用),02年家康より地子免許の特典をうけ漸次復興を遂げた。…

【小谷方】より

…1583年4月24日,羽柴(豊臣)秀吉に攻められ,越前北ノ庄にて勝家とともに自害した。3女は逃れて,のちに長女は秀吉の側室淀君,次女は京極高次室常高院,三女は徳川秀忠室崇源院となる。【久留島 典子】。…

【小浜[市]】より

…北川の断層谷に沿う九里半街道で容易に畿内に通じ,西廻航路開発まで日本海屈指の要港であった。現市街は1600年(慶長5)入部の京極高次が北川,南川を堀に利用して築城し,低地を埋め立てて町を開こうとしたのに始まり,34年(寛永11)以後酒井氏11万石の城下町として明治に至った。1918年小浜線開通後,港は海運に代わって若狭湾漁業の根拠地となり,現在は市東部の田烏(たがらす)のきんちゃく網と付近の定置網の漁獲物の集散地をなしている。…

【小浜藩】より

…若狭国小浜に居城を置いた譜代中藩。1600年(慶長5)関ヶ原の戦のとき西軍に属した木下勝俊が除封され,そのあとに近江大津城主であった京極高次が入部し,若狭一国8万5000石を領した。翌年,高次は近江国高島郡のうちにおいて7000石を加増され,ついで高次の子忠高は,24年(寛永1)越前国敦賀郡2万1000石を加増され,領地高は合計11万3500石となった。…

【京極氏】より

…鎌倉時代以来の武家。宇多源氏の近江佐々木氏の流れ。佐々木信綱の三男泰綱は京都六角東洞院に住して六角氏を称し近江国守護となり,四男氏信は京極高辻に住して京極氏を称した。京極氏は5代佐々木高氏(道誉)によって南北朝・室町期の隆盛の基が築かれた。高氏は元弘・建武の騒乱で足利尊氏の最も忠実な武将として活躍し,重用されてその勢いは惣領家六角氏をしのいだ。高氏の功により歴代室町幕府評定衆に列し,侍所所司の家格(四職)を得,孫高詮の後は飛驒・出雲・隠岐3国の守護職を相伝した。…

※「京極高次」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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