松江藩
まつえはん
出雲(いずも)国島根郡松江(島根県松江市)に置かれた藩で出雲(雲州(うんしゅう))藩ともいう。ごく初期は中規模の外様(とざま)藩であったが、1638年(寛永15)以後は家門(かもん)中藩。1600年(慶長5)毛利(もうり)氏が防長2か国に減封されて出雲からも去り、遠江(とおとうみ)浜松藩主堀尾吉晴(ほりおよしはる)が出雲・隠岐(おき)2か国24万石の領主として入封、戦国大名尼子(あまご)氏の旧城能義(のぎ)郡富田(とだ)城(月山(がっさん)城)に居を定めたが、やがて島根郡法吉(ほっき)郷亀田(かめだ)山に新城を築き城下町を建設、1611年この地へ移った。この新都市はこのころ「松江」とよばれるようになった。堀尾氏は3代続いたが、1633年(寛永10)忠晴(ただはる)が死ぬと嗣子(しし)なく断絶、翌年若狭小浜(わかさおばま)藩主京極忠高(きょうごくただたか)が松江に移って出雲・隠岐(おき)2か国を支配したが、1637年に病死、京極氏はいったん除封された。かわって翌年親藩大名松平直政(なおまさ)(越前(えちぜん)家)が信濃(しなの)松本から松江に移り、以後、綱隆(つなたか)、綱近(つなちか)、吉透(よしとう)、宣維(のぶすみ)、宗衍(むねのぶ)、治郷(はるさと)、斉恒(なりつね)、斉貴(なりたか)、定安(さだやす)と続き明治に至った。
領地は出雲一国で公称18万6000石であったが、『寛文朱印留(かんぶんしゅいんとめ)』によれば1664年(寛文4)の実高は500か村28万石余となっている。1666年長男綱隆が襲封したとき、二男近栄(ちかよし)に広瀬3万石、三男隆政(たかまさ)に神戸(かんべ)(母里(もり))1万石を分与し、この3家は出雲国内で廃藩置県まで続いた。出雲一国の支配とは別に幕領の隠岐一国が1688年(元禄1)から1720年(享保5)までの間を除き幕末まで松江藩に預けられた。藩政初期には地方役(じかたやく)岸崎左久治(さきゅうじ)が藩の地方支配の基礎を築き、中期には中老小田切備中尚足(おだぎりびっちゅうひさたり)が「延享(えんきょう)の改革」を、ついで家老朝日丹波茂保(あさひたんばしげやす)が「御立派(おたては)の改革」を行っている。7代藩主治郷は中興の名君と称され、不昧(ふまい)と号し茶人として知られる。幕末の1868年(慶応4)には藩預地である隠岐で農民3000人が結集し、郡代以下藩役人が退去させられるという「隠岐騒動」が起こっている。1871年(明治4)廃藩置県により藩領は松江県となり、さらに島根県となった。
[松尾 寿]
『『島根県史 8・9』(1930・島根県/復刻版・1972・名著出版)』▽『『新修島根県史 通史編』(1968・島根県)』▽『上野富太郎・野津静一郎著『松江市誌』(1941・松江市/復刻版・1973・名著出版)』▽『『新修松江市誌』(1962・松江市)』
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松江藩 (まつえはん)
出雲国(島根県)松江に藩庁を置いた藩。初期は外様,中期以降は親藩。1600年(慶長5)堀尾吉晴が出雲・隠岐両国24万石に封ぜられ,能義郡富田城に入る。07年島根郡末次の亀田山に移城を決定,11年に完成移転,以後歴代藩主の居城となった。34年(寛永11)断絶した堀尾氏に代わって京極忠高が入封,出雲・隠岐両国に加えて石見銀山の大森代官所支配地5万石も支配する。次いで京極氏が断絶して,38年結城秀康の三男松平直政が藩主となった。出雲国18万6000石で,隠岐国1万8000石は幕府の預地である。以来松平氏は廃藩置県まで10代230年間つづく。公称表高は18万石余であったが,実際の内高は25万石,32万石の記録もある。藩域は出雲国全体にわたり,能義,意宇,仁多,大原,飯石,出雲,神門,秋鹿,楯縫,島根の10郡であったが,1666年(寛文6)広瀬藩,母里(もり)藩の分封により,84年(貞享1)からは飯石郡24ヵ村,能義郡32ヵ村を広瀬藩領に,能義郡17ヵ村を母里藩領に分割した。松江藩はその初期から財政難に直面させられ,検地,新田開発,殖産興業などの収入増加策や,倹約令,半知などの経費節減を繰り返してきたが,1747年(延享4)6代宗衍(むねのぶ)は小田切備中とともに,積極的な殖産興業政策を主軸にした改革を実施した。しかし藩主による土地領有権の切売りである義田仕法や,趣向方による新案工夫は成功しなかった。このため38歳の宗衍は隠居させられ,7代治郷(はるさと)(不昧)と朝日丹波による御立派(おたては)の改革が行われ,綱紀粛正,冗費節約,勧農抑商,徴税強化で財政危機をのりこえた。維新期には,親藩として佐幕の立場をとったことから,山陰道鎮撫使を迎えて一藩存亡の危機に立たされ,隠岐では尊王攘夷派の神官と庄屋による騒動が起こった。藩内の特産には鉄,木綿,蠟,朝鮮人参があったが,いずれも藩の統制下におかれ,主として大坂市場に出荷されていた。なかでも,朝鮮人参の利益は大きかったといわれる。
執筆者:内藤 正中
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まつえはん【松江藩】
江戸時代、出雲(いずも)国島根郡松江(現、島根県松江市)に藩庁をおいた、初め外様(とざま)藩、のち親藩(しんぱん)。藩校は修道館。1600年(慶長(けいちょう)5)の関ヶ原の戦い後、浜松藩主の堀尾忠氏(ただうじ)が出雲国・隠岐(おき)国の2国24万石で入封(にゅうほう)。忠氏は父吉晴とともに、亀田(かめだ)山に築いた松江城に11年から移り、城下町を建設したが、3代忠晴(ただはる)に嗣子(しし)がなく断絶。34年(寛永(かんえい)11))に入封した京極忠高(きょうごくただたか)は、天領である石見銀山の大森代官所支配地4万石も預ったが、やはり無嗣のため改易(かいえき)となった。38年、信濃(しなの)国松本藩から松平直政(なおまさ)が18万6000石で転封(てんぽう)(国替(くにがえ))し、以後明治維新まで、家門(かもん)の松平(越前)氏10代が続いた。直政は、次男近栄(ちかよし)に広瀬藩3万石、3男隆政(たかまさ)に母里(もり)藩1万石を与えて支藩とした。鉄をはじめ木綿、朝鮮ニンジン、木蝋(もくろう)の殖産興業を進めたが、財政は苦しく、7代藩主の治郷(はるさと)は家老の朝日茂保(しげやす)とともに「御立(おたて)派の改革」と呼ばれる藩政改革を行って藩財政を立て直した。治郷は茶人(号は不昧(ふまい))としても有名。明治維新の際には、隠岐の島民が蜂起する「隠岐騒動」が起きた。1871年(明治4)の廃藩置県により、松江県を経て島根県に編入された。◇雲州(うんしゅう)藩ともいう。
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松江藩【まつえはん】
出雲(いずも)藩とも。出雲国松江に藩庁をおいた親藩。藩主は堀尾氏・京極氏・松平(越前)氏と変遷。出雲国・隠岐(おき)国で領地高約18万6000石〜24万石。松江城の本丸から三の丸までは国指定史跡,天守は重要文化財。
→関連項目出雲国|宇佐美【しん】水|清水寺|松江城|松平治郷
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松江藩
まつえはん
出雲国松江(現,島根県松江市)を城地とする外様のち家門大藩。関ケ原の戦後,1600年(慶長5)外様の堀尾忠氏が遠江国浜松から入封して立藩。はじめ富田(とだ)を城地とし,のち松江に築城して移る。出雲・隠岐両国24万石を領したが,2代で無嗣除封。34年(寛永11)かわって外様の京極忠高が入るが,5年で断絶。38年家門の松平(越前)直政が信濃国松本から入封し,出雲一国を与えられた。18万6000石。直政は徳川家康の次男結城秀康の三男で,以後10代にわたる。7代治郷(はるさと)(不昧(ふまい))は文化人として著名。詰席は大広間。藩校文明館(1758設立)は変遷をへてのち修道館。特産物の鉄・蝋などは早くから藩の専売。隠岐一国は幕領となったのちも長く松平氏に預けられた。1666年(寛文6)支藩に広瀬・母里(もり)両藩をたて,18世紀初めには一時松江新田藩をおいた。廃藩後は松江県となる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
松江藩
まつえはん
江戸時代,出雲国 (島根県) 松江地方を領有した藩。慶長5 (1600) 年堀尾忠氏が遠江 (静岡県) 浜松から 24万石で出雲広瀬富田に入封したのに始る。忠氏の没後,同 16年松江城に移ったが,寛永 10 (33) 年3代目の忠晴の没後,嗣子がなかったために除封され,翌年若狭 (福井県) 小浜から京極忠高が 26万 4200石で入封。同 14年京極氏は播磨 (兵庫県) 竜野へ移封し,翌年松平直政が信濃 (長野県) 松本から 18万 6000石で入封した。寛文6 (66) 年の綱隆の代に,近栄に3万石 (同国広瀬藩) ,隆政に1万石 (同国母里藩) をそれぞれ分与。以後廃藩置県にいたった。松平氏は家門,江戸城大広間詰。
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松江藩
出雲国、松江(現:島根県松江市)本拠地とした藩。関ヶ原の戦いの後、毛利氏に代わり堀尾吉晴が遠州国から24万石で入封。当初富田(とだ)城(月山城)に入ったが、宍道湖北側の亀田山に新たな城を築き、城下町を整備。1611年に居城を移し、城下は松江と呼ばれるようになった。以後の藩主に京極氏、松平氏。松江城は千鳥城とも呼ばれ、国の史跡に指定。天守閣は重要文化財。
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世界大百科事典(旧版)内の松江藩の言及
【隠岐国】より
…【井上 寛司】
【近世】
1600年(慶長5)出雲国と合わせて24万石で堀尾吉晴の支配となる。つづいて34年(寛永11)からは京極忠高の支配であったが,松江藩に松平直政が入部した38年以降は幕府直轄地となり,松江藩に預けられた。しかし松江藩は87年(貞享4)に隠岐国を幕府に返上したことから,石見国大森代官所支配となったが,翌年には再び松江藩預け地となる。…
【松平治郷】より
…江戸中期の大名。出雲国[松江藩]の第7代藩主。号は不昧(ふまい)。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」