小保村
こぼむら
[現在地名]大川市小保
筑後川に注ぐ花宗川最下流左岸に位置し、東は津村、南は網干村。町場を形成した小保町があり、同町の東は堀を挟み榎津町。コボウともよび(筑後国郡村仮名附帳)、小法とも記した。遠見番所が置かれた(元禄国絵図)。中世は三潴庄西郷のうち。小法丸ともいう。年月日未詳の三潴庄地頭名主交名注文(東寺百合文書/鎌倉遺文二七)によると小法村は上小法村と下小法村に分れ、ともに三潴庄の領家(四条家)の氏寺である法常住院領に属し、山城石清水八幡宮が地頭職を有した。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、小法丸は大善寺玉垂宮(現久留米市)の一一月中卯日の冬烝使頭官料六斗、一二月朔幣料五斗を負担し、五月会で右方相撲を出し、九月一九日の九月会では津村とともに七番の頭役を勤め、その料田二反があった。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)でも小法丸村として冬祭分の祭料米六斗、一二月朔幣料米五斗・九月会祭頭・相撲・回廊一間を負担した。末尾に「但上下ノ小法」とあり、この時代も上・下二村に分れていた。文明一九年(長享元年、一四八七)八月二七日、田原親宗に対し本地の一時的代替として筑後国内の闕所地のうちから小保一三町などが預け置かれている(「三潴郡内新給坪付」田原文書/宮崎県史 史料編中世二)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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