デジタル大辞泉
「津村」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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津村
つむら
[現在地名]鎌倉市津・津西一―二丁目・西鎌倉一―四丁目・腰越一―五丁目・七里ガ浜一―二丁目・七里ガ浜東一―五丁目・稲村ガ崎五丁目
腰越村で海に注ぐ神戸川がつくる谷間に位置する。かつて腰越村と一村であったため村域の交錯がはなはだしく、両村を一括すると南は七里ヶ浜などの海岸、北は手広村、東は極楽寺村、西は片瀬村(現藤沢市)に接し、南部を海岸沿いに鎌倉への道が通過する。
「吾妻鏡」建仁二年(一二〇二)二月二〇日・二一日条に、「相模国積良」辺りに名木の古い柳のあることを聞いた将軍源頼家が、出かけて行ってその木を幕府の鞠御壺に移植したことがみえる。鎌倉時代の初め以来、三浦氏の一族は南深沢郷の地頭職を相伝していたが、その一人高井重茂後家の津村尼は仁治二年(一二四一)四月一七日、子の高井高茂に「ミなミふかさハのうち、つむらのやしき・てつくり」を譲渡した(「津村尼譲状」県史一)。以後、「津村田在家」はその子孫の間に譲与され、応永一九年(一四一二)三月二一日の三浦和田(中条)寒資所領譲状(県史三)まで記載されている。
津村
つむら
[現在地名]大川市津
小保町の南東に位置し、西は網干村、南は一木村・幡保村、東は久留米藩領上巻村。中世は三潴庄西郷のうち。永仁四年(一二九六)一二月日の玉垂宮并大善寺仏神事記文(御船文書/鎌倉遺文二五)によると、大善寺玉垂宮(現久留米市)の一一月中卯日の冬烝使頭官料一石二斗を負担し、五月会で村田楽・尻巻・右方相撲を出し、九月一九日の九月会では小法とともに七番の頭役を勤めその料田七段があった。ほかに冠木貫木免田四段の修理料田があった。貞和三年(一三四七)九月二三日の高良宮祭料米色々神役村々注文写(御船文書/南北朝遺文(九州編)二)では冬祭分の祭料米一石二斗・解纜大般若供米一石五斗・九月会祭頭・村田楽・尻巻・相撲最手・回廊二間・大善寺檀供二〇枚を負担した。同年九月二二日の高良玉垂宮并大善寺仏神免田注文写(同上)によると、津村村に玉垂宮定額田寺家知行分一町があった。
津村
つむら
[現在地名]大垣市津村町
大垣輪中の東部に位置し、東を揖斐川が南流する。西は上開発村。津不良・津布良とも記す。「吾妻鏡」建久三年(一一九二)一二月一四日条に平家没官領として「津不良領」がみえ、「神鳳鈔」にみえる伊勢神宮領津布良開発御厨の領域と考えられる。
慶長六年(一六〇一)九月日の辻忠兵衛合戦覚(黄薇古簡集)によれば、「津布良村ニ而夜打之事」が小早川秀秋の家中稲葉内匠に伝えられている。
津村
つむら
大坂三郷の津村を冠した北之町・西之町・中之町・東之町・南之町一帯にあった村。慶長三年(一五九八)には当地に豊臣秀吉の家臣亀井茲矩の屋敷があった(同年「大坂御坊移徙御法事記」竜谷大学蔵)。元和初年の摂津一国高御改帳では東成郡に含まれ高五〇七石余、大坂藩松平忠明領。元和五年(一六一九)の大坂市中拡張に際し町に転換されたが(初発言上候帳面写)、のちに分れる五町とも船場の計画的な街区に比べて不整形な街区なので、村の屋敷地部分が町になったと考えられる。
津村
つむら
[現在地名]伊勢市津村町
宮川と支流横輪川の合流点近くにあり、横輪川を挟んで円座村と向い合う。「五鈴遺響」は旧名として津布良を記す。近世は和歌山藩田丸領で、慶安郷帳(明大刑博蔵)によれば村高二三五石余うち畑方一二八石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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