三潴庄(読み)みづまのしよう

日本歴史地名大系 「三潴庄」の解説

三潴庄
みづまのしよう

筑後川下流域左岸一帯に広がり、三潴郡のほぼ全域に及んだ郡名庄。三・三妻とも記し、「みぬま」とも読む。現在の久留米市西部から三潴町・城島じようじま町・大木おおき町、大川市の全域、柳川市・筑後市の一部に比定される。庄の鎮守は大善だいぜん玉垂たまたれ(現久留米市)であった。本家は長承元年(一一三二)鳥羽上皇の御願寺として創建された宝荘厳ほうしようごん(現京都市左京区)である。平治元年(一一五九)閏五月日の宝荘厳院領庄園注文案(東寺百合文書/平安遺文六)に「筑後国三庄 隆季卿」とみえ、これ以前に立庄されたことになる。隆季は四条家の始祖となった四条隆季で、三潴庄の領家であった。当庄は全国有数の穀倉地帯に位置する宝荘厳院領で最大の庄園で、同注文案によると年貢は米六〇〇石・綿四一一両。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)三月一三日条には同日付の源頼朝請文が引かれ、後白河上皇からの申入れに従い和田義盛の「鎮西三潴庄地頭」が停止されている。領家四条隆季の岳父は平清盛と結んで保元の乱で権勢を得た藤原通憲(信西)であり、隆季の嫡男隆房の室は清盛女で、隆季と清盛は相舅の関係にあった(尊卑分脈)。和田義盛が三潴庄地頭に補されたのは、隆季と平氏との親密な関係により当庄が平家没官領に準じられたためであろう。

鎌倉幕府は九州における平氏勢力の一掃に努め、名主層武士の所領を安堵して彼らを御家人として掌握した。例えば三潴庄白垣しらかき(現大川市)の本補地頭白垣弥二郎宗平(文永一一年七月一日「三潴庄白垣村等田畠在家注文」田部文書/鎌倉遺文一五)田口たぐち(現同上)地頭職の田原泰広(弘安二年一二月二八日「将軍家政所下文案」川瀬氏所蔵文書/鎌倉遺文一八)がいる。このほか三潴庄荒木あらき中富なかとみ(現久留米市)などを相伝した大江(荒木)(永仁五年一〇月二二日「大江宗心所領処分状案」近藤文書/鎌倉遺文二六など)八院はちいん(現大木町)本主菅藤三入道助仏(正応四年九月二日「関東下知状」山代文書/鎌倉遺文二三)是友これとも(現久留米市)の本主住吉弥四郎為孝と子息孝景(応長元年九月一八日「菅原孝宗請文案」青方文書/鎌倉遺文三二)大隈おおくま(現同上)在々所々を本地とする大隈右衛門佐(正和二年二月五日「鎮西探題御教書案」大隈文書/鎌倉遺文三二)荊津おどろつ(現同上)を名字の地とする荊津(国分寺)孫三郎入道教信(同三年閏三月一〇日「鎮西御教書案」青方文書/史料纂集)西牟田にしむた(現三潴町)名主の西牟田行西(仁治二年七月日「四条家政所下文」寛元寺文書/鎌倉遺文八)浜武はまたけ(現柳川市)を名字の地とする浜武三郎入道教円(嘉暦四年四月一六日「鎮西下知状」歴世古文書/鎌倉遺文三九)らの名がみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android