日本歴史地名大系 「三潴庄」の解説
三潴庄
みづまのしよう
- 福岡県:三潴郡
- 三潴庄
筑後川下流域左岸一帯に広がり、三潴郡のほぼ全域に及んだ郡名庄。三・三妻とも記し、「みぬま」とも読む。現在の久留米市西部から三潴町・
庄 隆季卿」とみえ、これ以前に立庄されたことになる。隆季は四条家の始祖となった四条隆季で、三潴庄の領家であった。当庄は全国有数の穀倉地帯に位置する宝荘厳院領で最大の庄園で、同注文案によると年貢は米六〇〇石・綿四一一両。「吾妻鏡」文治五年(一一八九)三月一三日条には同日付の源頼朝請文が引かれ、後白河上皇からの申入れに従い和田義盛の「鎮西三潴庄地頭」が停止されている。領家四条隆季の岳父は平清盛と結んで保元の乱で権勢を得た藤原通憲(信西)であり、隆季の嫡男隆房の室は清盛女で、隆季と清盛は相舅の関係にあった(尊卑分脈)。和田義盛が三潴庄地頭に補されたのは、隆季と平氏との親密な関係により当庄が平家没官領に準じられたためであろう。
鎌倉幕府は九州における平氏勢力の一掃に努め、名主層武士の所領を安堵して彼らを御家人として掌握した。例えば三潴庄
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報