大川市(読み)オオカワシ

デジタル大辞泉 「大川市」の意味・読み・例文・類語

おおかわ‐し〔おほかは‐〕【大川市】

大川

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日本歴史地名大系 「大川市」の解説

大川市
おおかわし

面積:三三・六一平方キロ

県の南西端に位置し、西は筑後川を挟み佐賀県川副かわそえ町・諸富もろどみ町、東は三潴みづま大木おおき町、南は柳川市、北は三潴郡城島じようじま町および一部が佐賀県千代田ちよだ町に接する。筑後川下流左岸の平坦な沖積地帯で、花宗はなむね川が中央部を西流し、向島むかいじまの南で筑後川に合流する。灌漑および排水のため、全域にクリーク(溝渠)が走る。市域の北西から南東に国道二〇八号が通り、ほぼ中央で二〇八号から分岐した国道四四二号が東に向かう。東部を国道三八五号が南北に通り、四四二号と交差する。主要地方道は南部を大牟田―川副線、西部を久留米―城島―大川線、北部を大川―大木線が通る。

〔原始―中世〕

考古遺跡については三潴郡の項目を参照。律令制下には三潴郡に属し、「和名抄」所載の同郡八郷のうち青木あおき郷が市域に及んだとする説もある。市内田口たぐち川口かわぐち三叉みつまた地区には条里遺構がみられる。平治元年(一一五九)初見の三潴庄は三潴郡全域に及び、宝荘厳ほうしようごん(現京都市左京区)領最大の庄園とされる。中世は市域の大半が三潴庄西さい郷に属した。三潴庄は宝荘厳院を本家とし、四条家を領家とする。南北朝時代後期、領家は一族の鷲尾家に移った。鎌倉期初頭には幕府侍所別当和田義盛が三潴庄惣地頭を勤めた。鎌倉時代末期には領家と地頭の間で下地中分が行われ、南北朝後期には大友氏が三潴庄半分を知行した。大友氏一族田原氏は田口村地頭職を有し、さらにその庶流の田口氏は田口を名字の地とした。市域の北端に位置する下青木しもあおきかねは安楽寺(太宰府天満宮)領の青木庄に含まれる。筑後川の入江に面して小法こぼ榎津えのきづがあった。榎津は明の「図書編」(万暦五年成立)に「言奴気子」とあり、有明海海運の拠点であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大川市」の意味・わかりやすい解説

大川〔市〕
おおかわ

福岡県南西部,筑紫平野の南部,筑後川の河口近くに位置する市。 1954年大川町と三又 (みつまた) ,川口,大野島,田口,木室 (きむろ) の5村が合体して市制。中心市街地大川は宝暦1 (1751) 年に久留米藩主有馬氏が開港して以来,筑後川水運と,有明海航路を結ぶ物資の集散地,水運の要地として発展。戦国時代に起源をもつ木工業が次第に発達し,現在では全国有数の家具・建具工業地として知られる。かつては上流域の日田 (大分県) 材を多く使用していたが,60年頃からはフィリピンのラワン材アラスカの檜材などを利用。農村部は筑後川三角州特有のクリーク地帯で,米作のほか,イグサ,イチゴなどの栽培,ノリ養殖,採貝,げんしき網など有明海の沿岸漁業や筑後川特産のエツ漁も行われる。 64年不知火 (しらぬい) ・有明・大牟田新産業都市の一部に指定され,家具工業の近代化を推進。風浪宮 (ふうろうぐう) があり,本殿・石造五重塔などが重要文化財に指定されている。国道 208号線,442号線が通る。面積 33.62km2。人口 3万2988(2020)。

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