朝日日本歴史人物事典 「小山健三」の解説
小山健三
生年:安政5.6.13(1858.7.23)
明治大正期の実業家。武蔵国埼玉郡忍城郭内(埼玉県行田市)に忍藩士宇三郎の長男として生まれる。母は鈴木氏。明治初年に藩校で理数方面の才能を示す。明治5(1872)年上京し個人教授に測量術,化学,英語を,また順天求合社などで数学を学ぶ。8年長野県師範学校教員を経て熊谷県(翌年より群馬県)に奉職し,学校教員,温泉の分析などに従事。14年文部省に転じ,以後長崎県立師範学校長,第五高等中学校教諭,東京工業学校教授,文部大臣秘書官,高等商業学校長,農商務参事官(兼任)などを経て文部次官を最後に31年7月,政変のため辞職し,翌年1月三十四銀行(三和銀行)頭取。以後,死去するまでその地位にあった。 「一人一業主義」を唱える小山は,その他の私企業にはかかわらなかったが,大阪金融界の重鎮として,京釜鉄道,東洋拓殖,韓国銀行,朝鮮殖産銀行などの国策会社の設立に協力し,大阪銀行集会所と大阪手形交換所の委員長,大阪商業会議所特別議員などに選ばれた。大正期には生産調査会,米価調節調査会,経済調査会などの委員を歴任。大正9(1920)年貴族院議員に勅選。関東大震災後ほどなく心臓の持病が悪化して死亡。頭のケガを避けるため室内でも帽子をかぶっていたという逸話があるほど慎重であったが,三十四銀行が第1次大戦の好況期に危険な行動を避け,大正9年の恐慌で打撃を受けることなく発展し続けたのはリーダー小山のそうした資質によるところが大きかったように思われる。<参考文献>三十四銀行編『小山健三伝』
(阿部武司)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報