小山田庄(読み)おやまだのしよう

日本歴史地名大系 「小山田庄」の解説

小山田庄
おやまだのしよう

小山おやま相原あいはらを除く町田市のほぼ全域と神奈川県川崎市麻生あさお黒川くろかわとを庄域とした庄園。小山田保と称した時期もある。庄名としての確実な初見は南北朝期であるが、「吾妻鏡」などに記される小山田別当有重とその子重成・重朝・行重兄弟の活動からみて、平安末期から鎌倉初期にかけて秩父一族の平姓小山田氏の所領であったとみられる。北条時政の謀計により小山田一族が没落した後の当庄は北条得宗家領となり、鎌倉幕府滅亡、室町幕府開創後は上杉氏の所領になったと推定される。建武五年(一三三八)五月二七日、足利尊氏の母上杉清子は、某人(甥の鎌倉府執事上杉憲顕か)宛てに、小山田の真光しんこう寺を某僧都に返還するよう要請している(「上杉清子書状」上杉家文書)。真光寺はのち堂舎が朽損したため、嘉慶二年(一三八八)再建の勧進状が作成された(私案抄)。一方、貞治三年(一三六四)庄内山崎やまさき郷は鎌倉円覚寺塔頭黄梅おうばい院領として、同じく黒川郷半分は御仁々局という女性の所領として、ともに鎌倉府から下地渡付が行われ、ついで同六年、黒川郷半分も御仁々局からの寄進で黄梅院領となった(同年一〇月二八日「上杉憲春施行状」黄梅院文書)

のち当庄は、小山田保と改称されて武蔵国衙領に編入されたが、実質上は武蔵守護上杉氏の守護領とみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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