朝日日本歴史人物事典 「小池村勇七」の解説
小池村勇七
生年:宝暦13(1763)
江戸後期の百姓一揆の指導者。常陸国(茨城県)信太郡上杉氏知行所小池村(阿見町)の百姓であったが,水戸街道牛久宿の問屋麻屋和藤治による助郷村増加願に反対して,一揆を計画,文化1(1804)年10月17日夜,同村吉十郎と張札を村々高札場に張出した。翌日女化稲荷に参集した百姓らを取りまとめた桂村兵右衛門を加え3人が頭取となった。19日には百姓らは数千人になり,20日に和藤治宅を,21日に牛久宿治左衛門宅を,22日に阿見村権左衛門宅を打毀した。同日夕刻,土浦藩兵が鎮圧のため牛久宿に到着,百姓らは解散帰村した。これを牛久助郷騒動という。頭取3人は,百姓ら百余人と共に逮捕され,江戸の牢に送られ,吟味中に牢死した。頭取らの供養碑が阿見町一区の道標として建てられ,上小池共同墓地に勇七らの墓碑がある。<参考文献>『阿見町史』,鈴木久『牛久助郷騒動記録』
(斎藤善之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報