日本大百科全書(ニッポニカ) 「小野友五郎」の意味・わかりやすい解説
小野友五郎
おのともごろう
(1831―1898)
幕末・明治初期の技術者。常陸(ひたち)国(茨城県)笠間(かさま)に生まれる。小守庫七の三男で、小野柳五郎の養嗣子(ようしし)となる。初め和算を学び、1852年(嘉永5)幕府天文方手伝となり、1855年(安政2)長崎海軍伝習所に入り、洋算や航海術の伝習を受けた。軍艦操練所が創設されると教授方に任用され、1860年(万延1)には咸臨丸(かんりんまる)に測量方として乗船、アメリカに渡った。1862年(文久2)蒸気船製造を建白、その主任を命ぜられ、「千代田型」蒸気船を完成した。軍艦頭取、軍制掛などを歴任、1866年(慶応2)には軍艦受け取りのため再渡米し、翌1867年勘定奉行並(かんじょうぶぎょうなみ)になった。鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いの際は大坂におり、明治維新後罰せられて牢(ろう)に入ったが、1870年(明治3)許され、民部省鉄道掛、ついで工部省出仕となり、鉄道測量に従事した。1877年退官し、その後は民間にあって製塩業に力を尽くした。
[菊池俊彦]
『藤井哲博著『小野友五郎の生涯』(1985・中公新書)』