咸臨丸(読み)カンリンマル

デジタル大辞泉 「咸臨丸」の意味・読み・例文・類語

かんりん‐まる【咸臨丸】

江戸幕府が安政4年(1857)にオランダ建造させた木造・3本マストの蒸気軍艦。原名ヤパン。排水量625トン、機関100馬力、備砲12門。幕府海軍の練習艦として用いられた。万延元年(1860)勝海舟艦長として遣米使節の随行艦となり、太平洋横断

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共同通信ニュース用語解説 「咸臨丸」の解説

咸臨丸

江戸幕府がオランダに発注し、1857年に完成した全長約49メートル、幅約8メートルの木造軍艦。60年にはワシントンでの日米修好通商条約批准書交換のため、遣米使節団が乗る米軍艦に随伴する形で同行。戊辰戦争では榎本武揚えのもと・たけあき率いる旧幕府軍に使われ、その後は北海道への物資や移住者の輸送に貢献した。71年、仙台藩白石の401人を乗せ北海道小樽に向かう途中、木古内町の「サラキ岬」沖で座礁、沈没した。

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精選版 日本国語大辞典 「咸臨丸」の意味・読み・例文・類語

かんりん‐まる【咸臨丸】

  1. 江戸幕府がオランダに注文して建造した日本最初の蒸気軍艦。安政四年(一八五七)八月長崎に到着、翌年江戸に回航され、万延元年(一八六〇)日米条約批准交換の際、木村摂津守を提督、勝安房守を艦長として日本最初の太平洋横断を果たした。のち文久元年(一八六一小笠原諸島開拓の任務につき、明治元年一八六八榎本武揚の幕府艦隊品川脱出に従ったが、荒天のため清水港に避難し官軍捕獲された。原名ヤパン号。全長一六三フィート、幅二四フィート、深さ一二・五フィート、備砲一二門、機関一〇〇馬力、スクリュー推進、帆装は三檣バーク、また、排水量は諸説あるが六二五トン程度と推定される。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「咸臨丸」の意味・わかりやすい解説

咸臨丸
かんりんまる

江戸幕府の軍艦。幕府の注文により1856年オランダのホップ・スミット造船所で起工、1857年3月進水し、ファン・カッテンディーケら海軍教官とともに同年9月(安政4年8月)長崎に到着、原名をヤパン(日本)号といった。長さ49メートル、100馬力の蒸気機関を備えた木造3本檣(マスト)、内輪(ないりん)のスクーナー・コルベット艦、排水量625トン、速力6ノット、備砲12門。当初長崎、ついで江戸で幕府海軍の練習艦として使用され、1860年(万延1)遣米使節迎艦ポーハタン号の護衛艦として木村喜毅(きむらよしたけ)(芥舟(かいしゅう))、勝海舟(かつかいしゅう)、アメリカ人ブルックJohn Mercer Brooke(1826―1906)らが乗り組み、同年2月10日(旧暦正月19日)浦賀発、日本軍艦として初めて太平洋を横断して3月17日(同2月25日)サンフランシスコ着、使節の到着とパナマ向け出発を見届けてのち、ホノルル経由、6月23日(同5月5日)浦賀に帰った。のち神奈川警備、対馬(つしま)出張、小笠原(おがさわら)島開拓に従事、1868年(明治1)機関を外され、品川沖より箱館(はこだて)への脱走を図った榎本武揚(えのもとたけあき)の艦隊に参加したが、荒天のため下田(しもだ)、ついで清水(しみず)に寄港、官軍に捕獲された。のち開拓使の運送船となり、1872年廃船となる。

[金井 圓 2018年9月19日]

『土居良三著『咸臨丸海を渡る』(1992・未来社/中公文庫)』『合田一道著『咸臨丸栄光と悲劇の5000日』(2000・北海道新聞社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「咸臨丸」の意味・わかりやすい解説

咸臨丸 (かんりんまる)

江戸時代末期,幕府がオランダに発注,建造した軍艦。オランダでの原名はヤパン号。3本マストの木造帆船で,100馬力の蒸気機関をもち,長さ約50m,幅は約8.5m。1857年(安政4)8月,カッテンダイケの指揮で長崎に到着,海軍伝習所の訓練艦となった。1860年(万延1)1月,新見(しんみ)正興らの遣米使節に護衛艦として随行し,海軍奉行木村喜毅(よしたけ)(芥舟)監督の下に艦長勝義邦(海舟)とアメリカ士官ブルックJohn M.Brookeらの操縦で,太平洋を横断した。帰国後,幕府の小笠原島開拓の用船となったが,損傷して67年(慶応3)軍籍を離れ,純帆船に改装された。68年(明治1)には旧幕府海軍副総督榎本武揚(たけあき)の箱館脱走艦隊に加えられたが,途中で難破し,清水港で修理中に新政府に捕獲され,大蔵省や開拓使所管の輸送船に使われた。72年,帝国郵便蒸気船会社に払い下げられたといわれる。
幕末遣外使節
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百科事典マイペディア 「咸臨丸」の意味・わかりやすい解説

咸臨丸【かんりんまる】

江戸幕府が海軍創設のためオランダに発注,1857年カッテンダイケの指揮で長崎に到着した木造軍艦。原名ヤパン号。3本マストの帆船,長さ49.5m,幅7.2m,100馬力の補助蒸気機関をもち,海軍伝習所の練習艦となった。1860年遣米使節の護衛と実地操練のため,艦長勝海舟の指揮で太平洋横断(所要37日)。幕府瓦解後,榎本武揚の艦隊に参加したが,荒天のため清水港に入港していたところを官軍が捕獲。のち開拓使所管の運送船となる。→幕末遣外使節
→関連項目福沢諭吉

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「咸臨丸」の解説

咸臨丸
かんりんまる

原名はヤパン号。江戸幕府が海軍創設のためにオランダに発注・購入した蒸気軍艦。1857年竣工。排水量625トン,機関出力100馬力。同年(安政4)長崎に回航。艦長カッテンダイケらオランダ人教官のもとで第2次海軍伝習の練習艦となる。60年(万延元)遣米使節の随行艦として木村芥舟(かいしゅう)・勝海舟らが乗り組み,同乗したブルックらアメリカ海軍士官の支援を得て日本人初の太平洋横断に成功。68年(明治元)機関を取り外して帆船となっていた咸臨丸は,戊辰戦争に際し榎本武揚の指揮下に江戸を出港したが,遭難して清水港で官軍に捕らえられた。その後,北海道開拓使の運送船をへて民間に移され,70年北海道沿岸で難破した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「咸臨丸」の意味・わかりやすい解説

咸臨丸
かんりんまる

日本人の操縦で,初めて太平洋の横断を果した江戸幕府の軍艦。オランダで建造,安政4 (1857) 年進水,同年長崎に到着,10万ドルで購入された。長さ 49m,幅 7m,三檣で 100馬力の蒸気機関を備えた内車型汽帆併用船。備砲 12門。日米修好条約の批准書交換のため派米された幕府使節の乗船したアメリカ軍艦『ポーハタン』号に同行した。万延1 (60) 年1月 19日出航,2月 25日サンフランシスコに入港,のちホノルルを経て帰国した。軍艦奉行木村喜毅,艦長勝海舟以下 98人の日本人によって航海した。なお 11人のアメリカ士官,医者が便乗していた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「咸臨丸」の解説

咸臨丸
かんりんまる

1860年,日米修好通商条約批准の遣米使節に従い,勝海舟が艦長となり,日本で初めて太平洋を横断した船
1857年幕府がオランダから購入した木造の帆装蒸気船で,長さ約47m,300トン。遣米使節の随行艦として,43日間を要して太平洋を横断した。

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世界大百科事典(旧版)内の咸臨丸の言及

【幕末遣外使節】より

…5月22日,国務長官カスとの間に批准書を交換したのち,ニューヨークからナイアガラ号に乗り,喜望峰を経由して60年11月8日(万延1年9月28日)に帰国。なお使節と同時に,木村喜毅を提督とし,勝義邦を艦長とする咸臨丸が,太平洋を渡った。(2)1862年(文久2),両港(兵庫,新潟)・両都(江戸,大坂)の開港開市期日の延期交渉のため,ヨーロッパへ派遣。…

※「咸臨丸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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