翻訳|warship
一般的には戦闘行動を目的として整備された特殊な船舶を軍艦warshipとよぶのが普通であるが、制度的には、より広範囲に、海軍が所有し、海軍士官が指揮する船舶は、兵装の有無にかかわらず、すべて軍艦naval vesselの範疇(はんちゅう)に含まれる。
[石渡幸二]
国際法上の軍艦についての明確な規定は20世紀末までなかったが、1994年に発効した国連海洋法条約第29条に「軍艦の定義」が設けられ、そこでは「一つの国の軍隊に属する船舶で、当該国の国籍を有する船舶であることを示す外部標識を掲げ、当該国の政府によって正式に任命されてその氏名が軍務に従事する者の適当な名簿またはこれに相当するものに記載されている士官の指揮下にあり、かつ正規の軍隊の規律に服する乗組員が配置されているもの」と規定されている。日本は1996年、この条約を批准した。以上の要件を満たした軍艦には、他国の領海内でも自国の主権を認められる。いわゆる軍艦の特権といわれるもので、不可侵権、治外法権、納税免除、礼遇享受がそれである。したがって、まったく兵装を備えていない貨物船でも病院船でも、以上の要件に合致している限り、制度的にはれっきとした軍艦である。
その種類は時代により国によって異なるが、大別すれば、戦闘に従事する戦闘艦艇と、その支援任務に使われる支援艦船に分類できる。しかし、前記のように、狭義の軍艦は、このうちの戦闘艦艇、すなわち戦闘のために設計、建造された特殊船舶をさし、兵装を備え、特別の船型と構造を有するのが特徴である。この点、各種の船舶安全法規にのっとって建造される一般商船とは趣(おもむき)を異にしている。
[石渡幸二]
水上戦闘を目的とする特殊な船を初めて整備したのはエジプト人であるが、大規模に使用するようになったのはフェニキア人からで、さらにギリシア、ローマがこれを受け継ぎ、船体もしだいに大型になった。
このころの軍艦の特色は、多くのオールを舷側(げんそく)に並べて、奴隷や罪人に漕(こ)がせた点で、同時に簡単な帆を備えて順風のおりに使用した。固有の装備としては、舳先(へさき)に青銅で固めたラム(衝角(しょうかく))を設け、敵艦を突き破るのに用いた。この種の木造軍艦はガレー船galleyとよばれたが、船体が大きくなるにつれて、オールの数もしだいに多くなり、オールの列を2段、3段に配したものが現れた。ローマ時代には5段のガレー船も出現している。戦闘の方式は、ラムや弓矢、投石器で相手を傷つけたうえで、舷側(げんそく)を近づけ、武装した兵士が切り込む格闘戦であった。
[石渡幸二]
ガレー船の活躍舞台はほぼ地中海に限られていたが、中世に入ると、北欧スカンジナビアを根城とするノルマン人が、バイキング船Viking shipとよばれる独特の船型を考案して、ヨーロッパの北部および西部海岸に侵攻し、さらに地中海にも進出した。このバイキング船は、オールを主要な推進手段とする点はガレー船と同じであったが、小型ながら堅牢(けんろう)で、航洋性と速力に優れたものであった。
14世紀のなかばにイタリアで大砲が発明され、ベネチア人がこれを船に装備することに成功した。一方、帆走技術の進歩につれて、マストと帆の数が増え、推進手段が人力からしだいに帆に移って、ついに「風に逆らって進むことのできる」帆走艦の時代を迎えた。これらの変化は、今日の目からすれば、きわめてゆったりしたテンポで進行したが、シア(舷側線の前後部に設けた上向きの反り)とキャンバー(船体の横断面にみる甲板の上反り)をもった船体に多くの帆を張った航洋性に富む帆船の出現と、航海術の進歩によって、長時間洋上を行動できる軍艦の誕生が、ようやく可能になった。
[石渡幸二]
15世紀から16世紀にかけて、いわゆる大航海時代に入り、未知の世界への航海が活発になったが、これに伴って海洋主権の担い手も、スペイン、オランダ、そしてイギリスと変わり、18世紀末からの産業革命を迎えた。この間、大砲の発達によって、軍艦の型式も、舷側(げんそく)にずらりと砲門を並べた砲力を中心とするものになり、やがて攻撃力に重点を置いた戦列艦ship of the lineと、運動性能を重視したフリゲートfrigateというように、機能的な軍艦の分化が生ずるようになった。
このころ、日本でも安宅船(あたけぶね)とよばれる大型の軍船が登場し、室町末期から江戸初期にかけて活躍したが、江戸幕府の大型船建造禁止政策によって、その発展はとだえてしまった。
この間、16世紀初頭には、イギリスで、排水量1000トンの大型帆走艦グレート・ハリーGreat Harryが出現し、17世紀には有名なソブリン・オブ・ザ・シーズSovereign of the Seasが建造された。排水量1522トン、砲102門、乗員600人の本艦は、以後2世紀以上にわたって建造された大型帆走艦の原型となったものである。
1805年のトラファルガーの海戦にイギリス艦隊の旗艦として参加したビクトリーVictoryは、戦列艦の代表的なもので、満載排水量4000トン、乗員は850人に達した。トン数に比して乗員数が多いのは、操帆と砲の操作におびただしい人手を要したためである。また、当時の軍艦の居住性は、今日の軍艦とは比較にならない劣悪なものであったことを銘記しておく必要があろう。
砲が強力になり、その射程も長くなるにつれて、砲火を交えたあと接舷して切り込む旧来の戦法は、しだいに影を潜めたが、18世紀から船材の一部に使用され始めた鉄が、やがて広範囲に使われるようになり、さらに鉄にかわって鋼が登場し、推進機関に蒸気機関が採用されるに至って、軍艦は大きな革新期を迎えた。砲も前装砲(弾丸を砲口から装填(そうてん)するもの)から後装砲になり、加えて施条砲(砲身の内面にねじれた溝を幾筋も彫って弾丸が回転しながら飛び出すようにしたもの)、炸裂弾(さくれつだん)の発明によって、破壊力が飛躍的に増大した。こうした状勢のもとに、19世紀中葉に起こったクリミア戦争とアメリカの南北戦争が、軍艦の革新に拍車をかけた。増大した大砲の破壊力に対抗するため、船体に防御装甲を取り付けることが検討され、ここに本格的な装甲艦建造の機運が高まった。
こうして誕生した装甲艦が、フランスのグロアールGloire、イギリスのウォーリアWarriorである。1859年に竣工(しゅんこう)したグロアールは、木造の船体に装甲を取り付けたものであったが、その翌年完成したウォーリアは、船体も鉄製の純然たる装甲艦で、排水量も9000トンを超え、しかも艦内を多数の水密区画に細分して不沈性を高め、推進器も外輪より効率のよいスクリューを採用して14ノット強の速力を発揮するという、当時としては画期的な性能を備えていた。世に近代軍艦の始祖とよばれるゆえんである。しかし、艦首から艦尾まで舷側にずらりと砲を並べた在来の兵装配置は、それぞれの砲を防御するには広範囲に装甲を必要とし、そのため個々の砲に対する防御を十分なものとすることが困難であった。この矛盾を解決すべく考え出されたのが中央砲郭艦(ちゅうおうほうかくかん)で、搭載する砲を艦の中央部に集中配置し、その周囲の砲郭に重点的に厚い装甲を施したものである。
イギリス海軍は一時もっぱらこの中央砲郭艦の整備、改良に力を注いだが、おりから南北戦争の推移が、ここにまた新たな方向を示唆した。砲塔艦の出現がそれである。
甲鉄の塔に砲を収め、動力を用いてこれを思うままに旋回させる構想は、イギリスとアメリカで以前から研究されていたが、この戦争中、北軍は、南軍の重装甲艦メリマックMerrimackに対抗するため、口径27.9センチの巨砲2門を蒸気動力によって旋回する装甲砲塔に収めた浅吃水(せんきっすい)の甲鉄艦モニターMonitorを建造した。両者の対戦は勝敗の決しないまま終わったが、旋回砲塔の利点は衆目の認めるところとなり、以後幾多の変形を生み出しながらも、着実に進歩を重ねた。とくに推進装置としての蒸気機関がしだいに信頼度を高めて、順次帆装設備が姿を消し、それまで砲の射界を制限していた複雑な帆装索具類がなくなるのにつれて、旋回砲塔の有用性はいっそう歴然たるものとなった。
こうして砲塔式主砲と重装甲が主力軍艦に不可欠の装備となり、さらにこれに優れた航洋性と速力が加味されて、近代的主力艦の要素を整えるに至ったのが、1892年から1894年にかけて完成したイギリス戦艦ロイヤル・ソブリンRoyal Sovereign級7隻である。航洋性に欠けるために波の荒い海域では使いものにならなかったそれまでの多くの装甲艦と比較すると、平甲板型の高い乾舷を有する船体は際だった変化をみせ、口径34.3センチの主砲4門は、連装露砲塔型式(旋回砲塔の一種で天蓋(てんがい)がなく砲が露出しているもの)として、前後に2門ずつ配置され、舷側装甲は厚さ460ミリに達した。しかも進歩した蒸気機関によって17.5ノットの速力を発揮できたのである。
1894年(明治27)、日清(にっしん)両海軍の主力艦隊どうしで戦われた黄海海戦(こうかいかいせん)は、集中砲火の顕著な効果と高速の必要性を改めて認識させたが、その翌年竣工したイギリス戦艦マジェスチックMajesticは、主砲に、在来の34.3センチ砲より威力のある新型30.5センチ砲を採用し、以後、のちに触れる超ド級艦の出現まで、この30.5センチ砲が戦艦の標準主兵装となった。
イギリスの建艦技術に対応して、イタリア、フランス、ドイツなども、独自の設計になる堅艦を次々に海上に送り出し、列強の帝国主義政策に裏打ちされた建艦競争は、産業革命の成果を吸収した技術革新のテンポにのって、急速にその激しさを増していった。
製鉄業の進歩は、ハーベイ鋼、ハーベイ・ニッケル鋼、クルップ滲炭鋼(しんたんこう)など、特殊な処理を施した強靭(きょうじん)な鋼鉄を生み出し、大砲の製造技術や火薬の性能も著しい向上を示すようになったが、このような背景のもとに生起した日露戦争の諸海戦、とくに1905年(明治38)の日本海海戦は、各国の建艦政策に決定的な影響を及ぼした。
[石渡幸二]
はるばるバルト海から来航したロシア艦隊が、東郷提督の率いる日本艦隊に撃滅されたこの海戦は、世界を驚かせたが、その立役者は戦艦の30.5センチ砲であり、巨砲の集中射撃の前には、いかなる堅艦もこれに耐え抜くことが不可能な事実が歴然と示された。戦術運動上の高速の利点も、いっそう明白に認識された。
この戦訓は一挙に大艦巨砲主義の花を開かせ、砲力を増強するためのさまざまな構想が、新艦建造のうえに具体化されていったが、1906年の暮れ、これらの諸傾向を一身に具現した画期的な戦艦がイギリスで完成した。有名なドレッドノートDreadnoughtがそれである。
本艦は、それまでの戦艦が、兵装を通常、主砲と副砲(準主砲)の二本立てとし、このうち4門の主砲だけを艦の中心線上に置いて、副砲は両舷(りょうげん)に分割配置していたのに対して、一挙に主砲を10門に増やし、副砲は全廃してしまった。しかも全主砲を5基の連装砲塔に収めて、うち3基を中心線上に配置したため、その片舷砲力は8門に達した。これは在来の戦艦のちょうど2倍の砲力である。しかも一方では、厚さ279ミリの水線装甲(鋼鉄の質の向上でロイヤル・ソブリン級の460ミリ装甲より強靭(きょうじん)であった)を装着し、また主機に、当時ようやく実用化の域に達したばかりの蒸気タービンを思いきって採用した結果、速力も一躍20ノットの壁を破って最高22ノットに達した。
従来のいかなる戦艦も、その威力の前には一朝にして旧式化したといわれた本艦の出現は、軍艦史上の一つの革命であった。その名にちなんだド(弩)級とか超ド(弩)級とかいうことばが、今日でも、強大なもの、偉大なものを形容するのに用いられている事実からも、この間の消息がうかがえよう。軍艦史のうえでは、以後、本艦を原型として各国が建造した戦艦群をド級戦艦とよび、さらに主砲を34.3センチ砲以上に強化したものを超ド級戦艦とよんでいる。
大艦巨砲主義がもっとも華やかに開花したのは、それから第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約締結時までで、列強は、より優れた攻撃力、より強固な防御力を有する巨大戦艦の建造を競った。この間、戦艦なみの攻撃力と巡洋艦なみの高速力をもつ反面、防御力を犠牲にした、巡洋戦艦battle cruiserとよばれる新艦種が生まれたりしたが、戦艦は疑いもなく海軍力の根幹とみなされ、海軍兵力は戦艦を中心に整備され、国家間の外交折衝もまたその威力を背景にして展開された。日本の長門(ながと)級戦艦が世界最初の41センチ砲搭載艦として小山のような姿を海上に浮かべたのは、この軍縮条約締結直前のことである。
帆走艦時代からの流れをみると、戦艦は明らかに戦列艦の発展したものであり、これに対して、フリゲートの進歩したものが巡洋艦である。巡洋艦はさらに、水線装甲を備えた装甲巡洋艦と、軽度の甲板防御を施したのみの防護巡洋艦に分化し、装甲巡洋艦は、その発達の極限において前記の巡洋戦艦に転化したとみることができる。
一方、1880年代に実用化の域に達した魚雷が、海戦の性格に大きな影響を及ぼしつつあった。破壊力のきわめて大きい魚雷を搭載した小型・高速の水雷艇torpedo boatが早速出現したが、至近の距離まで肉薄して雷撃を敢行する水雷艇の脅威は、戦艦にとって無視できないものとなった。その対抗策として、これを撃破する水雷艇駆逐艦torpedo boat destroyerという艦種が考案された。ほどなく、大洋での作戦には船型が小さすぎて、しばしば機能の発揮が困難な水雷艇にかわって、この水雷艇駆逐艦がその任務を代行するようになった。ただし名称は変わらず、水雷艇駆逐艦を駆逐艦と簡約化した呼び名が今日まで残っている。
[石渡幸二]
1914年から足かけ5年にわたった第一次世界大戦は、近代科学が大量殺人をもたらした空前の戦いであったが、潜水艦と航空機が大幅に活用されるようになったのも、このときからである。
潜水艦の着想は古く、すでにアメリカの独立戦争時に、アメリカ人ブッシュネルが発明した亀(かめ)のような形の一人乗り潜水艇が、イギリス艦を襲撃した事例があり、南北戦争に入ると、実際に潜水艇による敵艦撃沈という戦果ももたらされた。その後、一生を潜水艦の研究に費やしたアメリカ人ホランドの手によって、機械を用いて推進する実用的な潜水艦が完成し、これと前後してフランスも独自の潜水艦を開発した。20世紀に入るとともに各国がこの新兵器を採用したが、第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)当時には、なお洋上を航走する艦船に対して、どの程度の効力があるかは、予測以前の状態にとどまっていた。
しかし、戦争という異常事態のもとにおける人知の結集は驚くべき成果を招来するものである。潜水艦の著しい発達は、ドイツ潜水艦が行った通商破壊戦のすさまじい威力となって現れ、数十隻の戦艦を擁して海上の王者を自認していたイギリスが、ほとんどなすすべもなく、一時は深刻な危機に追い込まれた。
飛行機の歴史はいっそう日の浅いものであった。ライト兄弟が初飛行に成功したのは1903年のことであり、張り子細工のような頼りない姿に、軍事上の革命的な価値をみいだす者はほとんどいなかった。しかしその進歩もまた目覚ましく、有用性が実地に確認されると、船を浮かぶプラットフォームに仕立てて、海上作戦にこれを活用しようという着想が生まれた。航空母艦の誕生である。最初は水上機の運搬手段にすぎなかった母艦が、続いて飛行甲板を備え、車輪のついた飛行機を発着させるようになるまでには、たいした時間はかからなかった。全通飛行甲板を有する空母として完成した世界最初の軍艦は、1922年(大正11)に竣工(しゅんこう)した日本の鳳翔(ほうしょう)である。
潜水艦と飛行機の登場は、海戦の性格に根本的な変革をもたらした。海面という二次元の世界だけを舞台とした従来の海戦は、一挙に空中、海上、海中を含めた立体的な三次元内容に変質してしまったのである。
[石渡幸二]
第一次、第二次世界大戦の間における艦艇の発達は日進月歩の観があった。しかし、それ以上に目を見張らせる進歩を遂げたのは航空機である。あらゆる艦艇にとって上空から襲いかかる航空機は恐るべき存在になってきた。当然、軍艦の設計にも、この事態は大きな影響を及ぼし、積極的に航空母艦の整備に努めるほか、空から行う雷爆撃に対して、水中防御、甲板防御が重視され、対空火器の充実が大きな課題となった。
艦隊決戦は、これまでのような水上艦どうしの砲戦、魚雷戦ではなくなり、空母を基幹とする機動部隊(空母機動部隊)が、数百海里の距離を隔てて、互いの搭載機で戦う形に変わっていった。戦艦の主砲は海戦の勝敗を決する要素から脱落してしまったのである。海戦の性格が立体化した結果として、艦隊決戦の勝利が、そのまま確固とした制海権の保持に結び付く単純な図式は成立しがたくなった。制海権を得るには、制空権の確保が不可欠の前提となったし、加えて別途に、水中の敵、潜水艦の跳梁(ちょうりょう)を封じ込めねばならなかった。
潜水艦は、船体に使用する鋼材の質的向上、電気推進装置や魚雷の進歩に伴って、第二次世界大戦中、航空母艦とともに、もっとも重要な働きをした。隠密性を武器とする潜水艦を捕捉(ほそく)して有効な攻撃を加えることは容易ではなく、これを完全に制圧することは至難の業(わざ)であった。
このようにして水上艦は、航空機と潜水艦の脅威の板挟みとなり、相対的にその地位が大きく後退したが、そのなかにあって、潜水艦の活躍を封ずるための小型艦艇、総括して対潜艦艇とよばれる駆逐艦、フリゲート、コルベット、駆潜艇などが、だいじな水上兵力としてクローズアップされるようになった。また揚陸作戦専用の各種艦艇(揚陸艦艇)が考案され、おびただしく建造されたのも、この時期である。
レーダーの発明と進歩も、海戦の性格に大きな影響を及ぼした。優れた探知装置として登場したレーダーは、ほどなく射撃指揮システムに組み込まれて、攻撃面でも積極的に威力を発揮するようになり、その有無は艦艇にとってまさに死活の問題となった。
[石渡幸二]
戦後、水上艦では戦艦にかわって空母が主役となり、とくにアメリカでは、原爆搭載機を運用できる大型空母が、戦略兵器(核抑止力)としての機能を期待されるようになった。しかし、それ以上に革命的なできごとは、原子力推進の実用化、とりわけ原子力潜水艦の出現である。その第一艦はアメリカのノーチラスNautilusで、1954年に就役した。水中では電池を使って航走する以外に方法のなかったそれまでの潜水艦は、潜航可能時間の短いことと水中速力の遅いことが大きな弱点であったが、原子力推進の採用は一挙にこの問題を解決してくれた。運用上、無限と考えてよいその航続力と、飛躍的な水中速力の向上は、それまでの潜水艦が、本質的に、必要に応じて潜航できる可潜艦の域を出なかったのに対して、常時水中を自在に行動できる真の意味の潜水艦を生み出したのである。今日では主要海軍国の潜水艦は、原子力潜水艦が主体となっており、その傾向はますます強まりつつある。
他方、第二次世界大戦中にその萌芽(ほうが)をみせたミサイルが、戦後着実に実用化の段階を歩んで、まず対空ミサイルが水上艦に装備され始め、ついで長射程のミサイルを潜水艦に搭載し、これを戦略兵器として用いる構想が生まれた。高度の隠密性と機動性を備える原子力潜水艦の出現が、この傾向に拍車をかけたことはいうまでもない。
長射程の弾道ミサイルを搭載した原子力潜水艦の第一号は、1959年に竣工(しゅんこう)したアメリカのジョージ・ワシントンGeorge Washingtonで、ほどなく旧ソ連もこれに続き、米ソ両国のこの種の戦略潜水艦が、核抑止力の重要な担い手になった。今日では米ロのほかにイギリス、フランスも同様の戦略潜水艦を保有しており、中国も最近その仲間入りをしている。
[石渡幸二]
以上のような発達過程を経た今日の軍艦は、あらゆる科学技術の成果を取り入れたきわめて複雑巧緻(ふくざつこうち)なものになっており、その整備と運用にも高度の科学技術が必要である。その特色を列記すると次のようになる。
(1)ミサイルが中心的な兵器となった。
(2)充実したセンサーが不可欠の装備になっている。
(3)各種の戦闘機能がコンピュータ化され、電子装備の充実が決定的な要素となった。
(4)主機は原子力機関とガスタービンが主体になりつつある。
(5)静粛性が強く求められている。
(6)レーダーに探知されにくいステルス性が重視されている。
ミサイルは大別すると対空用、対艦(地)用、対潜用に分けられるが、対空用はさらに、広い空域をカバーできる艦隊防空用と、射程の短い個艦防空用に分類できる。対艦(地)用のミサイルも射程には大きなバリエーションがある。いずれにしても、早く相手を発見し、有効な先制攻撃を加えうるかどうかが死活の問題なので、そのための方策がいろいろと講じられている。各種の探知装置の働き、これと連動した攻撃諸元の計算、兵器の使用が、電子機器を駆使した一つの流れとして体系化されつつある。探知に対する逆探知、妨害、欺瞞(ぎまん)など、現代の軍艦の戦いはまさに電子戦の様相を呈している。
主機は原子力機関のほかに、操縦、整備の両面で簡便なガスタービンが広く採用されるようになっており、かつて艦艇主機の主体であった蒸気タービンは、原子力艦を除いて、急速に過去のものになりつつある。行動中できるだけ騒音を発生しないように配慮されている点も大きな特色で、水上艦、潜水艦の双方とも、ソナーによる探知から逃れるために、発生音の減少と外部に漏れる音の遮断に、多くのくふうを凝らしている(マスカー装置や主機の弾性支持装置など)。
[石渡幸二]
海戦の性格の複雑化に伴って、今日の軍艦の艦種名は非常に多くなり、しかも同じ性格の艦でも、国によって呼称が違うケースが少なくないので、すべてを列挙するとおびただしい数になるが、機能的に大別するとおよそ次のとおりである。
(1)潜水艦、(2)航空母艦、(3)水上戦闘艦艇、(4)機雷戦艦艇、(5)揚陸作戦艦艇、(6)支援艦船。
(1)潜水艦はさらに戦略潜水艦、巡航ミサイル潜水艦、哨戒(しょうかい)攻撃潜水艦、特殊用途の潜水艦(兵員輸送、救難など)に区分できる。戦略潜水艦のいちばんの敵は相手の哨戒攻撃潜水艦で、全般的にも潜水艦がもっとも警戒しなければならないのは相手の潜水艦である。目に見えない海面下で、潜水艦どうしの主として聴音に頼る感性の戦いが不断に続けられているのが、現代の特徴的様相といえよう。
(2)航空母艦には、カタパルトと着艦制動装置を備えて固定翼機を運用する大型のものと、より小型で対潜を主体にヘリコプターないしV(ブイ)/STOL(ストール)機(垂直・短距離離着陸機)のみを運用するものがある。
(3)水上戦闘艦艇として一括される艦艇の種類は非常に多い。巡洋艦、駆逐艦、護衛艦、フリゲート、コルベット、高速艇などがそのおもなものである。ほとんどが高速で、最近ではなんらかのミサイルを備えているのが普通である。
(4)機雷戦艦艇は、ミサイル、大砲、魚雷と並んで、現代のもう一つの重要な海戦兵器である機雷を扱うもので、機雷を敷設する敷設艦と、敷設された機雷の除去を任務とする掃海艦艇があり、掃海艦艇には、その使用海域、掃海方法の相違によって、いくつかのタイプがある。
(5)揚陸作戦艦艇は、上陸作戦にあたって、所要の人員、兵器、物資を迅速に陸揚げするための専用艦で、揚陸指揮艦、揚陸侵攻艦(強襲揚陸艦)、ドック型揚陸艦、戦車揚陸艦、貨物揚陸艦、そのほか各種の揚陸艇など、大小さまざまの種類がある。アメリカ海軍の揚陸侵攻艦ワスプ級Wasp Classなどは、全通する飛行甲板を備えた満載排水量4万トンを超える大艦である。
(6)支援艦船は、以上の各種戦闘用艦艇以外を一括した総称で、戦闘用の艦艇が必要に応じてその能力をいっぱいに発揮できるように、数々の支援任務を果たす艦船である。洋上補給艦のように積極的に艦隊と行動をともにするものから、入港時に接岸・離岸の手助けをするタグボートに至るまで、その種類は多岐多様であるが、おもなものには、洋上給油艦、洋上弾薬補給艦、洋上物資補給艦、掃海母艦、潜水艦救難艦、海洋観測艦、情報収集艦、練習艦、砕氷艦、病院船、浮きドックなどがある。通常、練習艦以外は兵装を備えていないか、備えていても自艦防御用に限定されたもので、狭義には軍艦と目されない性質の船である。しかし、このような縁の下の力持ち的な支援艦船が後ろに控えていない艦隊は、いわゆる張り子の虎(とら)的な存在に堕してしまうという意味で、海軍力が有効に機能するために不可欠な存在である。
また顕著にみられる傾向として、シーパワー(海軍国)同士が洋上で対決するという海戦の様相がほとんど考えられなくなった実情と、それとは逆に各地で地域紛争が頻発し、ゲリラ戦、海賊行為が多発している事態に対処して、それぞれの軍艦のもつ任務が多角化している点である。大規模災害に対する効率的な救難活動もこれからは欠かせない任務で、これらに対応する多用途的な装備が、支援艦船だけでなく戦闘船艇にも広く付与されつつある。いわゆる軍艦のマルチミッション化で、この傾向は近時の軍艦にみられる大きな特色である。
[石渡幸二]
今日の軍艦が、いってみれば電子装備のかたまりのようなものになっていることは先に述べたが、それだけにその建造費は甚だしく高価である。1998年に竣工(しゅんこう)した米原子力空母ハリー・S・トルーマンHarry S.Trumanの建造費は実に33億ドルに達しており、これに搭載機のコストをプラスすると、優に60億ドルを超える。1997年以降に竣工した米哨戒攻撃潜水艦シーウルフ級Seawolf Classも、1隻の単価が11億ドル余りになっている。基準排水量で7000トン強の海上自衛隊の護衛艦「こんごう」級でも1隻当り約1200億円もかかるのである。このような驚くべき高額の建造費は各国の建艦政策に大きな影響を及ぼしているが、それは国防と経済、国防と国民生活との関連においても無視できない課題になっている。
[石渡幸二]
『深谷甫著『軍艦の形態』(1941・海と空社)』▽『福井静夫著『日本の軍艦』(1956・出版協同社)』▽『『世界の艦船増刊第79集 近代戦艦史』(2008・海人社)』▽『『世界の艦船増刊第80集 航空母艦全史』(2008・海人社)』▽『『世界の艦船増刊第91集 世界の海軍2010-2011』(2010・海人社)』▽『Jane's Fighting Ships2009-2010(2009,Janes Information Group)』
厳密にいえば,海軍が所有し海軍軍人が指揮する船はすべて軍艦であるが,ふつうはこのうち,とくに戦闘に従事するものをさす。ただし旧日本海軍が戦闘に従事するものであっても駆逐艦,潜水艦などは軍艦とは呼ばなかったように,その範囲は国によっても異なる。一方,国際法上では明確な規定はないが,その国の定める旗章を掲げるすべての船は軍艦として扱われ,他国の領海内でも自国の主権を認められる。
軍艦の種類は国により時代により異なるが,大きく分類すれば,戦闘に直接従事する戦闘艦艇,これらの補助的任務を果たす補助艦艇,主として基地などで艦艇の運用の支援に使われる支援船の三つになる。このうち戦闘艦艇についていえば,第2次大戦までは戦艦,航空母艦(空母)など大型艦が主体をなしていたが,大戦後は戦艦はしだいに姿を消し,空母もアメリカを除けば数が減っている。代りに潜水艦,駆逐艦,護衛艦が大型化するとともに種類も数も増えて主力を占めるようになった。
ギリシア・ローマ時代の軍艦はガレー船と呼ばれ,帆と櫓櫂(ろかい)を使用する木船であった。海戦は弓矢,投石器,船首の衝角(ラム)で敵船に損害を与えたうえで,相手方に乗り移る格闘戦であった。
13世紀以降,ヨーロッパでは航海術と帆走法が発達し,軍艦はおおいに進歩した。玄側に多数の大砲を備え,これを斉射した後,接玄して斬込み戦で勝敗を決した。16世紀には大砲がおもな武器となり,船もしだいに大きくなったが,その一例としてトラファルガーの海戦におけるイギリス旗艦ビクトリー号は2000トン,102門の砲と乗員850人を乗せていた。
19世紀に入って軍艦は科学技術の進歩により急激に発達した。まず蒸気推進が実用化され,帆と外車が併用されたが,その後のスクリュープロペラの考案で汽走船が主力を占めるようになった。ついで鉄製,鋼製の船体が用いられるに至って本格的な軍艦が生まれ,戦艦,巡洋艦などの名称が現れてくる。19世紀末に魚雷を主兵装とする水雷艇が登場すると,これに対抗するための水雷艇駆逐艦も誕生し,徐々に大型・高速化し,日露戦争時代を境にして駆逐艦に発達,水雷戦の花形として重要視されるようになる。蓄電池,電動機の進歩によって潜水艦が急速に発達したのもこの時期である。
金属材料の発達により,敵弾に耐える甲鉄(装甲用の鋼鉄)が生まれ,一方でこれを破る大型の砲弾が登場し,巨砲対甲鉄の競争の下に戦艦が造られた。日露戦争当時の戦艦は1万4000~1万7000トン,11~12インチ主砲4門,7.5~10インチ中間砲と5~6インチ副砲それぞれ十数門を装備していたが,日本海海戦の経験は世界の軍艦の設計に大きな影響を与え,イギリスは1906年,1万7900トン,タービン機関を備え,速力21ノット,12インチ砲10門を有するドレッドノートを建造した。これが大艦巨砲時代の幕あけとなって,各国は競ってド(弩)級戦艦,巡洋戦艦を造り始めた。
主砲はそれまでの12インチから16インチと大きくなり,推進機関はタービンが広く採用され,燃料も石炭から重油に切り替わり,速力,航続力ともに増大した。黄海海戦(1894)では主力艦隊の砲戦距離は1000~3000mだったものが,ユトランド沖海戦(1916)では1万4000~2万3000mに伸びた。1922年,日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア5ヵ国間で海軍軍縮に関するワシントン条約(四ヵ国条約)が結ばれ,一時戦艦建造は中止されたが,造船材料の進歩,電気溶接の採用,タービンの高温高圧化,ディーゼルエンジンの性能向上などによって,軍艦の性能はさらに向上し,37年,条約から解放された各国は高速戦艦の建造を再開した。一方,航空機の出現とともに,これを軍艦に載せて使うことが考えられ,第1次大戦中は水上機母艦が,大戦後は本格的な航空母艦が登場,飛行機の発達に伴い注目を集め始めた。
第2次大戦においては,航空機の目覚ましい働きによって大艦巨砲は影の薄いものとなった。従来予想されていた砲戦と水雷戦による艦隊決戦は実現せず,制海権の争奪は,もっぱら空母を基幹とする機動部隊が数百カイリ(1カイリ=約1.8km)を隔て,互いの艦載機の攻撃によって勝敗を決する形で行われた。アメリカは大戦中に空母の大量建造を行い,優勢な航空戦力によって海上戦の主導権を握った。駆逐艦は水雷戦のほかに,機動部隊,船団の護衛,上陸援護,哨戒,索敵,輸送など活躍の場面が多かったが,それだけに犠牲も大きく,補充のための急速建造が行われた。潜水艦は鋼材,光学技術,電気推進,魚雷の進歩によって飛躍的に性能が向上したが,とくにドイツは高度の技術を有し,中型700隻を建造,大西洋における船団攻撃に大きな戦果を挙げた。連合国側もレーダーとソナーなどの新兵器によりこれに対抗し,航空機と対潜艦艇を使って,大戦末期にはこれの制圧に成功した。
大戦中の経験とその後の科学技術の進歩は,戦後の軍艦の姿を著しく変えた。戦艦が徐々に姿を消した代りに空母が主役となり,とくにアメリカでは原爆搭載機を積む空母が戦略兵器としての価値を期待されるようになった。1954年,米潜水艦ノーチラス号の原子力機関成功によって,潜水艦は従来の欠点とされた水中速力と潜航時間を飛躍的に増大し,長射程ミサイルを搭載することによって戦略的な役割をも担うことになった。他方,水上艦艇はジェット機,戦術核兵器などによる脅威の増大に対してレーダーと対空ミサイルを主体とした艦隊防空体制の整備に腐心してきた。
1967年にイスラエルの駆逐艦エイラート号がアラブ連合(現在のエジプト)のミサイル艇から発射された対艦ミサイルにより撃沈され,全世界の海軍に強い衝撃を与えた。対艦ミサイルの出現はその後の海上戦の様相を一変し,このため海上兵力の整備計画は大変革を余儀なくされることになった。対艦ミサイルは30~300カイリの射程で,弾頭威力はきわめて大きく,マッハ1~3の高速でさまざまの飛翔経路を有し,とくに海面すれすれに飛ぶものは発見が難しい。航空機,潜水艦,小型艇からも発射可能であり,洋上の艦船はすべてこの奇襲攻撃の脅威にさらされることになった。その対抗策の一つとして電子戦の重要性が認識されたのもこの時期である。70年代に入って,ソ連海軍の台頭は著しく,とくに多種多量の対艦ミサイルの装備と強力な潜水艦隊の建設は西側海軍に大きな脅威を与えるに至った。このような背景下に,米ソ二大海軍の建艦競争にリードされつつ軍艦は日進月歩を遂げ,冷戦体制の末期には技術的にきわめて高度なものになった。
日本では鉄砲,大筒などで武装した大型軍船としては,16世紀後半に安宅船(あたけぶね)が出現しているが,江戸時代に入ると幕府は安宅船の破棄を命じ,大型船の新造を禁止した。江戸末期に至って外国船の来航に刺激されてこの禁をといた。洋式軍艦としては1855年(安政2)オランダより寄贈を受けた鋼製蒸気船の観光丸が最初である。日清・日露戦争当時の主力軍艦はいずれも外国建造であったが,その後国内建艦技術は長足の進歩を遂げ,次々に巡洋艦,駆逐艦を国産,1914-15年にはイギリスで建造した巡洋戦艦金剛(2万7500トン,36cm砲8基)の同型艦3隻の国内建造に成功した。引き続きさらに大型の扶桑型,伊勢型を造り,20年には長門,陸奥(3万3800トン,40cm砲8基)を完成,日本海軍の大艦巨砲主義の伝統を作った。これが41年の新型戦艦大和,武蔵となって現れる。他方,条約制限下では,巡洋艦以下の艦艇の建造に努力が注がれ,幾多の優秀な艦が誕生した。日本海軍は,41年の太平洋戦争開戦時には約100万トンの戦闘艦艇を有する大海軍に成長していたが,45年終戦とともに解体され,その歴史の幕を閉じた。その後52年海上自衛隊が創設され,81年現在護衛艦を主力とする約20万トンの艦艇を保有している。
→海軍
排水トン数(船が排除する水の重さで,船の全重量に等しい)で表す。商船では総トン数(船の内容積を示す),載貨重量トン数(積荷の重さ)を使うので,両者は一律に比較できない。
→船舶トン数
軍艦は狭い船体の中に多くの装備品と乗員を収容しなければならないので,配置にはさまざまのくふうが凝らしてある。機関室は中央の大きな区画が与えられ,被害を受けてもなお船が運動力を失わないように,発電機,造水装置,ポンプなどの補機とともに数個の区画に分散して収められる。各種レーダーや電子戦兵器のアンテナはマスト,煙突上など高所に置かれる。銃砲,ミサイルなどの攻撃兵器の発射機は,射界を広くとるため前後の甲板上に階段状に配置される。潜水艦探知用のソナー発受信機は船首部の船底下に突出して装備される。ヘリコプターが搭載される場合は,波をかぶらない船尾に飛行甲板が設けられる。戦闘を指揮,管制する情報中枢は艦橋付近にまとめて配置される例が多い。
軍艦は洋上で優れた機動性を発揮することが要求される。速力は静かな海面で出しうる最大のものをいうが,波のある洋上でもなるべくこれに近い速力を維持できることが重要である。軍艦は速い速力を出すために,一般に船体は細長くやせ形で,そのうえ軽く造られなければならない。航続力は,普通よく使われる速力(16~20ノットの場合が多い)で何カイリ走れるかで表される。近年の駆逐艦の例では速力30~33ノット(時速約60km),航続力4000~6000カイリ程度のものが多い。
船体は航行中にいろいろな種類の外力を受けるが,軍艦は船体が細長いので,とくに波から船体を折り曲げようとする力を大きく受ける。また機関やプロペラによる船体縦振動も生じやすい。そこでこれらの力に耐えられるように,各層の甲板を艦首,艦尾方向に続くように配置し,同時に縦方向に十分な縦通材を並べるなどして,縦方向の強度がとくに強くなるような構造にする。一方,船体を軽くするために,材料の寸法は必要最小限にとどめ,さらに高張力鋼,アルミ材を使用して軽量化に努める。材料の継手はすべて溶接であり,溶接部に欠陥が生じないよう工作には高度の技術が適用される。軍艦は洋上を安全に航行できるとともに,戦闘被害に対しても強くなければならない。そのためとくに浸水に対しては,1ヵ所から水が入っても被害が全体に及ばないように,艦内を仕切る壁を商船より多く設けてある。戦艦,空母のような大型艦では重要部分の防御のために甲板や玄側に装甲を用いるが,小型艦では重量的に余裕がないので適用されない。
軍艦は,敵弾による被害を受けたとき沈まないだけでなく,戦闘を継続する力を維持することが要求される。艦内の一部に浸水すると,復原性が損なわれ転覆しやすくなったり,縦や横方向に傾斜して作業に支障をきたす。これに備えて,軍艦では商船に比して余裕のある設計がなされ,また主要な区画に注排水装置を設け,傾斜を直せるようになっているのが普通である。艦内の可燃物を局限し,消火装置を完備して火災の発生に備える。また重要な機器については,被害を受けても一時に全機能が失われないように分割したり(軍艦では普通主機関やプロペラは複数個にする),予備装置をもつなどの配慮がなされる。機器類はすべて衝撃に耐えられるものでなければならない。
狭いスペースに多人数が生活するので,艦内生活は窮屈で,無味乾燥なものになりがちであるが,最近は陸上生活との均衡を図るためスペースを広くとり,食事,環境,衛生,厚生などすべての生活条件を向上させる傾向にある。一方,機器類を自動化することによって省力化を図り乗員数を減らす努力がなされており,推進機関に操縦,整備の両面で人手のかからないガスタービンを導入しているのはその一例である。
最近は潜水艦の聴音性能が良くなったので,水上艦は遠距離から探知されないように自分の発生する騒音をできるだけ小さくしなければならない。とくに潜水艦を相手に戦う艦にとっては,自分のソナーのじゃまにならないためにも静かであることが絶対の条件になってきている。
軍艦は商船と使用目的が違うので,同じ船舶でも商船には必要としない特別な事項が要求される。そのおもな差は,(1)洋上で思うように走り回るためのやせて軽い船体,大馬力機関,多量の燃料搭載,(2)戦闘被害を考慮した強い復原性や特殊な構造,装備,(3)静かな船にするための防音・防振構造などの点である。また商船の設計,建造には主として安全性の点から各種の法規・規則が適用されるが,軍艦にはこれがない。
最近の軍艦の建造費の例を挙げると,世界最大の軍艦,アメリカ空母ニミッツ級は約20億ドル,アメリカ攻撃潜水艦ロサンゼルス級は約9.9億ドル,3000トン型アメリカ・フリゲートは約5億ドルである(《Jane's Fighting Ships》1981による)。軍艦は商船に比べてはるかに高価であるが,そのおもな理由は積んでいる兵器が高価なこと,設計図面が多いこと,船体自身も構造的に複雑で,内部が狭く,造りにくいことなどによる。最近は兵器が高度化したためにとくに高くなり,船体および機関と兵器との価格の比は第2次大戦直後は約6:4であったものが,今日では逆転してしまった。建造費の高騰はその国の建艦計画に大きな影響を及ぼしているが,その対策として高性能の艦を少数と,性能を一部犠牲にした経済的な艦を多数建造し,両者を組み合わせて運用する考え方が一般的になってきた。
第2次大戦において,水上艦艇は航空機に対する弱さを露呈したが,その後も科学技術の著しい進歩で,さらに守勢に立たざるをえなくなっている。すなわち洋上にある艦艇は偵察衛星により所在を秘匿することが困難となったし,多種類の高性能対艦ミサイルの同時攻撃を受けた場合,これに対応することはきわめて難しくなってきた。艦隊は数百カイリ先の見えざる敵航空機,水上艦,潜水艦から発射されるミサイルを相手に,不利な戦いを強制されることになった。したがって近年水上艦,とくに大型艦の存在価値についての議論が多い。しかし水上艦艇は多くの兵器や人員を積んで永く洋上を行動することができるし,若干の被害を受けても戦闘を続けることができるなど海上戦の作戦中枢としての役割を果たすうえで,依然大きな存在意義を認められている。一方,潜水艦は,最近潜航深度が深くなってますますその隠密性が向上し,そのうえ高性能のミサイルと魚雷を装備することによって戦略的にも,戦術的にもその威力を増し,水上艦に対して優位に立つことになろう。将来の海上戦は,ミサイルの性能向上と電子兵器の進歩によって,より広域多次元の舞台で行われるようになろうし,戦闘様相は予測しがたいほど複雑多岐化の方向をたどっている。これに対応するためには,海軍はあらゆる近代兵器の力を総合結集しなければならなくなった。中でも水上部隊にとっては,ミサイル防御が最大の課題であり,多くの艦艇が防空域を分担してミサイルの早期発見と互いの情報交換に努め,コンピューターを導入してミサイルが飛来するまでの短い時間内に目標の探知・識別,迎撃計画まで自動的に行うシステムが考えられている。迎撃も航空機,艦対空ミサイル,誘導砲,速射機関砲,電子妨害,欺瞞(ぎまん)などの多段的な手段が研究されているが,有力な防御兵器として高出力のレーザービーム兵器,粒子ビーム兵器の出現が期待されている。これからの水上艦はヘリコプター,垂直離着陸機などの航空機を搭載して艦艇の機能の拡大を図り,宇宙利用を含めた指揮,管制,通信手段および電子戦兵器を整備して友軍との相互支援体制を強化し,遠距離の空中,水上,水中の敵と戦える装備をもつなど,今世紀半ばころの水上艦とはまったく異質のものに変貌していくであろう。
執筆者:山川 健郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…一方,騎士階級が没落し,乗組員には専門の士官や水夫が多くなった。 喜望峰を迂回するインド航路の開拓(1498)やアメリカ大陸の発見によって,軍艦,艦隊は大洋航海と洋上戦闘の時代へと移る。戦争と発見と交易がほぼ同じ意味をもつこの時代,商船も海賊や私掠(しりやく)船に備えて大砲を搭載した。…
…今や海外に大きな市場を手に入れ,そこへの航路を開拓したヨーロッパ諸国は競って貿易の利をもとめ,なわばり争いも熾烈(しれつ)であった。積載量の大きい航洋商船と強力な軍艦が求められ,その必要にこたえてヨーロッパの船は発達を続けた。この時代の代表的帆船はガレオンと呼ばれ,キャラックの延長上にあるがキャラックより細長く,また船尾のラテン帆のマストが2本のものが多い。…
※「軍艦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新