幕末の江戸幕府の海軍教育機関。オランダが幕府に献納した軍艦(のち観光丸)を練習用にあて、オランダ海軍士官以下22名を教官として、1855年(安政2)10月、長崎奉行(ぶぎょう)所西屋敷に開設、当時、長崎在勤の目付であった永井尚志(ながいなおゆき)(「なおむね」とも読む)を所長格に任命した。授業は日課を定めて学科、訓練を海陸で行い、伝習生には幕臣、諸藩士が派遣された。勝海舟(かつかいしゅう)、榎本武揚(えのもとたけあき)や五代友厚(ごだいともあつ)、川村純義(かわむらすみよし)(1836―1904)、佐野常民(さのつねたみ)らもここに学び、海軍創設の基礎となった。1859年閉鎖。
[田中 彰 2018年9月19日]
『カッテンディーケ著、水田信利訳『長崎海軍伝習所の日々』(平凡社・東洋文庫)』
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幕末の長崎に西洋の海軍技術導入のため設けられた学校。幕府はペリー来航後海軍の創立を計画したが,艦船を発注したオランダから技術供与の申出をうけた結果,1855年(安政2)10月長崎に伝習所を開設した。教場は西奉行所,練習艦はオランダ寄贈の観光丸,監督は目付永井尚志(なおむね),教師はペルスライケン率いるオランダ海軍軍人,生徒は矢田堀鴻,勝麟太郎以下の下級幕臣と佐賀,福岡,鹿児島,萩等の諸藩士であった。57年江戸の軍艦操練所設立を機に主要成員が交代し,目付木村喜毅の下にカッテンダイケらの新教師団を迎えた。使用艦は新着の咸臨丸,朝陽丸,鳳翔丸と国産の長崎形であった。59年,井伊政権により伝習中止が決定され,教師団は帰国したが,飽浦修船工場の建設とポンペによる医学伝習は継続された。前者は長崎造船所の前身となり,後者は物理・化学に基礎をおく近代医学の始まりとなった。
執筆者:三谷 博
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