茨城県中西部の市。2006年3月旧笠間市と岩間(いわま)町,友部(ともべ)町が合体して成立した。人口7万9409万(2010)。
笠間市南部の旧町。旧西茨城郡所属。人口1万6303(2005)。町域の西端は八溝山地から続く丘陵で,東に台地が広がる。古くからの交通の要地で,古代には安居(あご)に安侯駅が設けられていた。中世は宍戸荘に属し,近世は土浦藩領,天領,旗本領に分かれ,下郷には土浦藩の陣屋が置かれた。米作に果樹,畜産を組み合わせた複合農業が進められている。また竹ぼうきや桐の産地としても知られる。桜の名所として有名な愛宕山の愛宕神社では旧暦11月14日夜に奇祭〈悪退祭〉が行われる。南北朝期に南朝の小田氏が拠った難台山城跡がある難台山北斜面はスズラン自生地の南限でもある。江戸時代の民家塙家住宅は重要文化財に指定されている。JR常磐線が通じ,常磐自動車道岩間インターチェンジがある。
執筆者:千葉 立也
笠間市西部の旧市。1955年笠間町が大池田,北山内,南山内の3村と合体,市制。人口2万9668(2005)。西縁を八溝山地で境され,栃木県に隣接する。市域では丘陵状の地形がめだち,市街も涸沼(ひぬま)川上流の盆地状低地に開ける。13~16世紀には市街東方の佐白山頂に城を構えた笠間氏が支配,江戸時代に入って笠間藩主牧野氏の治政下に城下町が完成,笠間稲荷神社の鳥居前町も成立した。加えて水戸~結城~小山を結ぶ街道(現,国道50号線)の宿場町であった。伝統産業として笠間藩の保護・育成をうけた笠間焼は,近江の信楽(しがらき)焼の技術を入れて始められたもので,水がめ,すり鉢を主とし,益子焼(栃木県)の祖と称される。明治中期,鉄道(現,JR水戸線)開通に伴い,市域西部から花コウ岩の採掘が始まり,質の良い白色の稲田御影石として東京市場で重用され,ビル建設,市街軌道敷石となった。近年は墓石の需要が多い。2007年に開通した北関東自動車道の笠間西インターチェンジがある。
執筆者:中川 浩一
江戸時代の笠間は譜代大名の城下町であり,佐白山の城郭を中心に,それをとりかこむ田町,大和田に侍屋敷が配置されていた。町屋は大手前の街道筋に立ち並び,その外側に足軽や小役人屋敷があった。城主は1747年(延享4)に8万石の大名牧野氏が入部するまで,3万~4万石クラスの譜代大名であった。城郭は1205年(元久2)に笠間氏によって築かれたといわれるが,町並みは天正・文禄年間(1573-96)以後に整えられた。笠間は磐城などの遠隔地を除いた茨城郡西部の藩領の中心で農村との結びつきが強かった。1705年(宝永2)の469戸の住民のうち,商工業は領内農村の年貢米,小作米を加工する酒造業などが中心で,また領内農村から城下町に流入して日雇稼ぎとなって生活している者も多くみられた。領内農村と結びついた小城下町といった性格から,近世後期になって関東地方一円に広い信者をもつ笠間稲荷の所在地とか,領内陶業が笠間焼として喧伝されると笠間の名は広く知られるようになった。明治維新後は西茨城郡の行政の中心として,あるいは鳥居前町としての笠間に性格を変えていった。
執筆者:松本 四郎
笠間市東部の旧町。旧西茨城郡所属。人口3万5526(2005)。北部,西部は八溝山地に連なる丘陵地で,東部,南部には台地が広がる。JR常磐線,水戸線が通じ,友部駅が分岐点となる。中世は宍戸荘に属し,江戸時代には水戸徳川家の支藩松平氏1万石の陣屋がおかれた宍戸(平町)が中心であったが,鉄道交通の発達により,友部駅周辺に中心が移った。交通の要地に位置するため住宅地化が進み,商業,サービス業が盛ん。友部駅付近に日本たばこ産業友部工場があり,2000年に開通した北関東自動車道の友部インターチェンジがある。
執筆者:千葉 立也
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
茨城県中西部にある市。1958年(昭和33)笠間町が稲田(いなだ)町を編入、同年市制施行。2006年(平成18)西茨城郡友部町(ともべまち)、岩間町(いわままち)を合併。八溝(やみぞ)山地南半部の鶏足(とりあし)山塊と筑波(つくば)山塊の間にあって盆地をなし、中心を涸沼(ひぬま)川が流れる。JR常磐線、水戸線、国道50号、355号が通じる。常磐自動車道の岩間、北関東自動車道の笠間西、友部の各インターチェンジがある。中世、鎌倉初期に笠間氏初代の時朝(ときとも)が佐白(さしろ)山に築城以来、笠間は約380年間笠間氏が支配。近世初期玉生(たまお)氏、蒲生(がもう)氏の代に城下町が整備され、1601年(慶長6)松平康重(やすしげ)が笠間藩3万石の藩主として入封したが、その後藩主はしばしば交替した。1747年(延享4)から廃藩置県までの120年間は牧野氏8万石の城下町であった。また笠間稲荷神社(かさまいなりじんじゃ)の門前町として開け、宿場町も栄えた所である。稲田は親鸞(しんらん)が1214年(建保2)越後(えちご)から移って布教に努めた所で、西念寺(さいねんじ)の遺跡がある。産業では藩主牧野氏の保護で始まった笠間焼が知られ、水甕(みずがめ)、すり鉢から花器、茶器などの民芸品に移ったが、1992年(平成4)国の伝統的工芸品に指定された。また稲田は東日本第一の花崗(かこう)岩石材の産がある。農業も盛んで、米、麦、ジャガイモ、ダイズ、ナシ、クリの生産や、ウシ、ブタ、ニワトリの畜産が行われる。また、笠間県立自然公園に属し、稲荷神社の信仰と史跡、観光の都市ともなっている。片庭(かたにわ)の楞厳寺(りょうごんじ)の千手観音(せんじゅかんのん)立像と山門は国指定重要文化財、その境内は国指定天然記念物のヒメハルゼミ発生地、笠間稲荷神社境内の八重のフジは県指定天然記念物。笠間日動(にちどう)美術館もある。面積240.40平方キロメートル、人口7万3173(2020)。
[櫻井明俊]
『矢口孝義著『笠間郷土史』(1956・笠間史談会)』
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