小野新町村(読み)おのにいまちむら

日本歴史地名大系 「小野新町村」の解説

小野新町村
おのにいまちむら

[現在地名]小野町小野新町

現小野町の中央東寄り、夏井なつい川とくるま川・黒森くろもり川の合流点付近の山間の小盆地に立地。小野仁井町とも書き、単に新町(仁井町)ともいう。中世には当地一帯を宮古みやこ(郷)・仁井町といったが、近世初め山神やまがみ赤沼あかぬまなど八ヵ村が成立した際、町分以外を大蔵作おおくらざく村とよび、のち町分・村方を含め小野新町村と称した。浜通りと中通りとを結ぶ磐城街道の要衝で、永正頃(一五〇四―二一)に三春田村義顕が小野城を築城し、三男顕基(顕定、法名梅雪斎)を配して小野地方支配の拠点としたという(仙道田村荘史)。天正五年(一五七七)岩城常隆は小野を攻めたが、田村氏に敗れている(同書)。同一四年一〇月の田村清顕の死後、田村氏家中は親伊達・親相馬両派に分れて抗争したが、親伊達派が勝利したため親相馬派の顕基らは当地へ退き、同一六年九月岩城常隆を頼り、年末には田村氏とも手を切り、翌一七年二月小野城周辺の守備を固めた(同月二一日「伊達政宗覚書」伊達家文書)。同年三月九日岩城常隆勢は小野新町へ出陣し、小野郷内の村々に放火、一〇日には田原谷たわらや(田原屋)まで進み田原谷城兵と戦い、一〇〇余人を打取っている(同月一一日「岩城常隆書状案」会津四家合考)。同一七年末には岩城常隆は伊達政宗と和睦し、当地と大越おおごえを田村氏に返還している(「貞山公治家記録」同年一二月一日条)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報