日本の城がわかる事典 「尾浦城」の解説 おうらじょう【尾浦城】 山形県鶴岡市にあった戦国時代の山城(やまじろ)。標高273.8mの高館山から続く丘陵の先端に築かれ、方形の主郭とその西側の副郭を中心に、その周囲に多数の小郭が配されていた。天文年間(1532~55年)に大宝寺武藤氏が築き、大宝寺城(のちの鶴ヶ岡城、同県鶴岡市)から本拠を移した。1587年(天正15)、最上勢の攻撃により、城主の武藤義興は自刃し城は落城。その翌年、上杉(本荘繁長)の援軍を得て十五里ヶ原の戦いで勝利し、城を奪還して武藤家も再興されたが、庄内は実質的に上杉氏の支配地域となった。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの時には、東軍に属した最上氏は西軍に与した上杉家を攻め、庄内を占領して尾浦城を再奪還し、1603年(慶長8)には大山城と改名した。ちなみに、この時期に酒田にあった東禅寺城は亀ヶ崎城(酒田城)に、大宝寺城は鶴ヶ岡城へと名前が改められている。1615年(元和1)の一国一城令により山上の居館は麓に移され、1622年(元和8)には最上氏が改易されて、大山城(尾浦城)は廃城となった。城址は現在、大山公園として整備され、各郭跡には神社が建てられているが、遺構は残っていない。JR羽越本線羽前大山駅から徒歩約10分。または鶴岡駅からバス約25分で大山-荘銀前下車。◇大浦(おうら)城とも記される。また、大山城とも呼ばれる。 出典 講談社日本の城がわかる事典について 情報