尾浦村(読み)おうらむら

日本歴史地名大系 「尾浦村」の解説

尾浦村
おうらむら

[現在地名]厳原町尾浦

久田くた浦の南にあり、外海に開く尾浦浦に臨む。西に舞石めえしノ壇山がある。三方を山に囲まれ、北は久田村、南は安神あがみ村と山を境とする。西は舞石峠を越えて内山うちやま村に至るが、古く内山村から移住したと伝える。文明三年(一四七一)閏八月一五日の宗貞国安堵書下(馬廻判物帳)に「おうらのかま(塩焼釜であろう)みえ、宗中務少輔に安堵された。同四年「大浦のかま二をつかひのかま一」と「根神目弥八」の持留田畠が俵長門守に安堵された(同年九月二日「宗貞国書下」同判物帳)。「海東諸国紀」では「仇多浦三十余戸」に続いて記される「造船五浦十余戸」の五浦(朝鮮語では五はオと発音)が当地に比定される。


尾浦村
おのうらむら

[現在地名]大月町大浦おおうら

才津野さいつの村の南部、才角さいつの川河口の西に川に並行して延びる丘の西側、南北に細長い平地にあり、才角川河口に向いた港をもつ。才津野村の枝郷で浦方。「土佐州郡志」は「尾浦西泊浦四村之一、東南向 縦横各二町、戸凡三十、有漁船数艘」と記し、また「錦浜」をあげて「浦東也、有小川、曰塩浜、今非煮塩処」という。

天正一八年(一五九〇)の佐井津野村地検帳に「小浦ノ村」とみえ、検地面積一三町四反余、屋敷数一〇うち居屋敷一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報