幡多郡(読み)はたぐん

日本歴史地名大系 「幡多郡」の解説

幡多郡
はたぐん

面積:九八八・七一平方キロ
大正たいしよう町・十和とおわ村・西土佐にしとさ村・佐賀さが町・大方おおがた町・三原みはら村・大月おおつき

県の西南部に位置する。古代以来の幡多郡の郡域は、現在の四町三村と中村市・宿毛すくも市・土佐清水市を含めた地域にほぼあたるが、昭和二九年(一九五四)に三市が成立して分離したので、郡域は北部山村部と東部海岸部および南部の台地部・海岸部に三分されることになった。北部の大正町十和村西土佐村四万十しまんと(渡川)の上流から中流域、四万十川が嵌入蛇行した地域を占め、東から西に連なる山間部の町村で、国道三八一号・国鉄予土線が東西に走る。四万十川両岸の斜面の土地利用が可能で、古くから集落が発達した。高知から高岡郡窪川くぼかわ町を経て愛媛県宇和島市に通ずる交通路にあたったところから、集落の数も多く、山林資源に恵まれて早くから開発された。東部海岸の佐賀町と大方町は高岡郡窪川台地から中村市に入る海岸部の町で、国道五六号・国鉄中村線が東北から西南に走る。大方町は平野が開け、西隣の中村市へ続き、もとの郡の中央経済地帯を形成している。南部は三原台地上の三原村とその南の宿毛湾岸の大月町で、三市によってそれぞれ他の郡域と分離されている。国道三二一号が大月町北部から東南に走る。三原村は地形的・経済的に中村市に近く、大月町は漁村が多い。

「国造本紀」に波多はたの国造がみえ、郡名は「三代実録」貞観二年(八六〇)六月二九日条に「土左国幡多郡地一十町賜施薬院」とみえるのが初見。「和名抄」東急本は「波太」と訓ずる。表記は八多(「日本紀略」天慶三年一二月一九日条)・畑(「平家物語」巻三、「太平記」巻一八)などの用例もあるが、公的には幡多で一貫している。

〔原始・古代〕

十和村広瀬ひろせの広瀬遺跡は四万十川の河成段丘上にあり、縄文前期前半から後期中葉にかけての複合遺跡で、とくに石錘の出土が多く、漁網の使用による淡水漁業が盛んであったことが推測される。四万十川流域には小規模ながら縄文時代の遺跡が点在する。弥生時代の遺跡は大方町・佐賀町にいくらかみられるが、大月町たつさこムクリ山遺跡は中期の高地性集落遺跡として知られ、標高二六〇メートルの山頂付近から隅丸方形の平地住居跡が発見されている。古墳は大方町下田の口しもたのくちの田の口古墳のみである。

前述のように「国造本紀」には崇神天皇の代に天韓襲命が波多国造になったことがみえるが、この波多国造の墳墓と考えられる前方後円墳の曾我山そがやま古墳、波多国造が祀ったと思われる高知坐たかちにます神社が宿毛市平田ひらた町にあることから、古代の官道(南海道)は初め幡多郡西南部から土佐に入り、この地を経由して土佐の国府に向かったと考えられ、大方町・佐賀町はその通過地域にあたっていたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報