尾田村(読み)おだむら

日本歴史地名大系 「尾田村」の解説

尾田村
おだむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら 尾田山中おだやまなか

上椎葉村の南東、耳川を隔てた山腹に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、下福良組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として尾田とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑五反余(高五斗余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では「中藪山」「八窪山」に焼畑一三枚・九反余があり、その年貢米二斗余・代銀一三匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高一石五斗余。


尾田村
おたむら

[現在地名]天水町尾田

荒平あらひら山の西に位置し、西は部田見へたみ村、南は立花たちばな村、北は野辺田のべた村と接する。近世は小田手永に属する。寛文九年(一六六九)の「一統志」に村名がみえ、元禄国絵図に「伊倉南方之内」とあってもとは伊倉南方いくらみなみがた(現玉名市)に含まれた。「国誌」には「高五百四石余、斎藤村荒平村等ノ小村アリ」とある。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳では惣畝数四一町五反六畝余、高五一一石余、下ケ名に正法寺などがある。


尾田村
おだむら

[現在地名]倉吉市尾田

福本ふくもと村・福富ふくどみ村の南東方、天神野てんじんの台地上に位置し、赤崎あかさき(現赤碕町)湯関ゆのせき(現関金町)とを結ぶ街道に沿う。南東は中田なかだ村。拝領高は一四九石余、本免は四ツ。本郷氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高一六三石余、竈数一〇余、村内に熊野権現を祀る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android