朝日日本歴史人物事典 「山本土佐掾」の解説
山本土佐掾
生年:生年不詳
江戸前期,宇治加賀掾と京都の人気を二分した古浄瑠璃の太夫。出自については不明な部分が多いが,京都出身で,本名を次左衛門といった可能性がある。はじめ山本角太夫といい,「天下一若狭掾藤原吉次」の名代(興行権)を持って,四条通り南側(東岸)に人形浄瑠璃の櫓を上げた。現存正本としては,延宝4(1676)年刊の「酒呑童子」が最も古いが,これが旗上げ興行時の演目かどうかは不明。同5年閏12月,加賀掾とほぼ同時に相模掾を受領し,記念興行に「頼朝三島詣」を上演した。しかし,京都新所司代に就任した土屋相模守と同名となったためさしさわりが生じ,土佐掾を再受領。 大坂の伊藤出羽掾や同座の岡本文弥に学び,作品も多く師匠譲りのものを語って,出羽や文弥を特徴づけた「泣き節」や段末をせきあげるように語る「くり上げ節」を発展させて,「愁い節」「かんとめ節」を編みだした。愁嘆描写を得意とし,生来高音に秀でていたらしく,「はるーかんーはるーかん」を繰り返して「愁い節」で受ける語り口には卓抜したものがあり,その曲風は角太夫節といってもてはやされた。しかし,加賀掾に比して作柄は概して保守的で,「善光寺」を家の浄瑠璃とするごとく,宗教色濃い作品が目につく。門下から松本治太夫や都一中らを輩出したほか,本家筋の出羽座の後進太夫たちにも大きな影響を与えた。代表作に「石山開帳」「七小町」「大しよくはん」「熊井太郎孝行之巻」「天王寺彼岸中日」など。<参考文献>信多純一「山本角太夫について」(古典文庫『古浄瑠璃集/角太夫正本1』解題),『古浄瑠璃正本集/角太夫編』全3巻
(阪口弘之)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報