デジタル大辞泉 「受領」の意味・読み・例文・類語
じゅ‐りょう〔‐リヤウ〕【受領】
1 物や金を受け取ること。「会費を
2 ⇒ずりょう(受領)
3 江戸時代、優秀と認められた職人・芸人などが栄誉として国名を付した一種の官位を名のることを許されること。また、その人。
[類語]受け取る・領収・査収・収受・接受・受理・受納・貰う・押し頂く・受ける・収める・受給・受贈・譲り受ける・貰い受ける・授かる・頂く・
平安時代以降の国司で,現地に赴任した者の中の最高責任者を指す称。律令制下において,国司四等官はそれぞれ国務に関する責任を分掌していたが,9世紀に入るとその体制が崩れ,実際に赴任した国司の内の最上席の者に国衙の責任が集中していく。そして10世紀初頭には受領は,徴税はもとより,国衙の全資財の管理責任を負い,国衙の裁判権や雑色人の任命権をも掌握し,国務を一手にになうようになる。受領以外の国司を任用国司と称したが,受領への権限集中に伴って,彼らは国務から疎外されていった。受領は,守や権守の場合が多かったが,介,権介の場合も少なくない。ただし11世紀後半以後は,親王任国を除くとほとんどの受領が守であったと思われる。平安時代後半以降になると,いわゆる留守所の成立に伴い受領は常時在府せず,国務は,目代を派遣して執り行わせ,みずからはごく短期間だけ国に行くというような状態となる。受領は国務に関して,中央の裁許を必要とするときには,太政官に判断を仰いだが,これは中央における一つの儀式として定着し,受領申請雑事と呼ばれた。彼らは,その強大な力にものを言わせて正規の徴収物のほかに多くの加徴を行い,莫大な富を築いた。農民からその非法を訴えられた藤原元命(もとなが)の例(《尾張国郡司百姓等解文》)や,莫大な財宝をたずさえて帰京し,《小右記》の筆者藤原実資に〈貪欲なり〉と評された藤原惟憲の例など,その収奪の過酷さと貪欲さを伝える史料は多い。ただ彼らとても,まったく無制限な収奪が可能だったわけではなく,一応のルールに従ったうえで可能なかぎりの増徴を行ったものと思われる。
受領の任命に当たっては,10世紀ころには受領挙という儀式が行われ,候補者が公卿によって推挙されることになっていたが,やがて形骸化した。受領になるにはいくつかのルートがあった。その一つは〈公文勘済の旧吏〉,すなわち,すでに一度受領としての経験があり,任終後一定の期間内に任期中の責任を全うしたという証明を得た人であることであった。彼らは順番によって任命される資格を有した。また〈新叙〉といって,蔵人,式部丞,民部丞,外記,史,検非違使尉等を経て五位となった者も順番によって任命される資格を有した。このほか院宮坊官等に勤仕する者や受領たるにふさわしい額の成功(じようごう)を行った者も任命された。しかるに摂関家や院が権力を集中するようになると,旧吏や新叙の人々は徐々に遠ざけられ,代わって権力者の周辺の人々が大量に任命されるようになる。受領の任期は一般に4年とされていたが,延任や重任(ちようにん)によって長期間在任する者もあった。受領の任期が終了すると新任受領との間で交替政が行われ,前任者は後任者から解由状(げゆじよう)または不与解由状(ほとんどの場合不与解由状)を交付されて帰京するが,さらに新官職に就くためには,原則として公文勘済(公文の監査を受け,欠怠などがないことを証明してもらうこと)を終え,受領功過定(任中の功・過についての評定)を受けておく必要があった。
彼らは主として四,五位層の中級官人であったが,少しでも有利な官職に就くためにたびたび成功を行ったり,時の権力者に結びついたりした。摂関期には摂関家家司(けいし)となる者も多く,このような者のことを家司受領と称した。彼らは志と称して莫大な献物を行い,受領在任中に荘園を寄進し,その経営にも当たるなど,摂関家の経済基盤の重要な一翼をになった。また院政が成立すると,かつての摂関家と受領の関係は,そのまま院と受領の関係へと変化し,受領たちは院近臣や院司受領として院政の重要な経済的支柱となっていった。彼らは院や摂関への奉仕には熱心であったが,公納物の納入には欠怠を常とした。受領の中には中央との関係を保持しつつ,一方で任地に土着し,在地に大勢力を築く者もあった。その中には頼信流の源氏や貞盛流の平氏のように,武士団の成立と大きなかかわりを持つ者も現れた。12世紀ごろになると知行国制の展開や荘園の増加が著しいが,この影響によって,受領の権威や収益も減少する。鎌倉時代にも受領は国衙領の支配者として存続するが,その姿は摂関期や院政初期の受領とは比較すべくもなく,実質的には荘園領主に似た存在となっていった。
執筆者:玉井 力
中世以降,受領はしだいに形式化され,地下の者の名誉称号ともなり,近世に入ると諸職の者や芸能の徒にも与えられた。なかでも,鍛冶,白粉師,菓子師,人形操師,浄瑠璃太夫などで受領に任ぜられるものが多かった。〈官位申条目之事〉(陽明文庫蔵)などの資料でその職業をみると,ほかに造酒師,墨師,筆師,絵具師,細工師,鏡師,針師,時計師,轡師(くつわし),仏師,仏具師,香具師,冠師,烏帽子師,塗師,簾師(みすし),茶筅師(ちやせんし),紙師,檜皮師(ひわだし),蠟燭師,櫛師(くしし),弓師,矢師,面打(めんうち),鼓胴師,鞨鼓師(かつこし)など多種多様である。受領は朝廷から一方的に与えられる推任の場合もあるが,多くは申(もうし)という申請状と副状(そえじよう)を提出し,勅許されると出頭して口宣を受け,白銀などを礼物として進上した。受領は守(かみ)・介(すけ)・掾(じよう)・目(さかん)の四階位よりなっていたが,国名を冠して加賀掾(浄瑠璃太夫宇治嘉太夫),河内目(説経太夫藤原吉次),近江大掾(刀鍛冶藤原兼定)などと称された。
執筆者:山本 吉左右
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本義は古代官人社会で交替の際の事務引き継ぎのことであるが、交替事務の重要性において国司の場合が他に勝っていたので、国司の別称となり、国務権限が国司官長(守(かみ)ないし守を欠く場合介(すけ))に集中していくにしたがい、国司官長をさすことばとなった。雑任(ぞうにん)国司の無力化と国司官長による国務の掌握とが決定的となるのが10世紀中葉であり、このころから受領が自己の郎等(ろうとう)らを駆使し、部内に対し旧来の慣行にとらわれることなく、恣意(しい)的な支配を行うようになった。この恣意的支配は、農民に対し過重負担をもたらし、国司苛政(かせい)訟訴とよばれる抵抗運動を引き起こした。989年(永祚1)尾張(おわり)国郡司百姓等解(ひゃくせいらのげ)は、農民らの受領支配に対する不満を示す好個の史料である。受領らは、ほぼ2割前後の増徴を行い、私富を蓄積し、平安京において豪壮な邸宅を構えるなど、栄華を極めた。ただし受領の栄華も摂関期が頂点で、院政期になると在地勢力の台頭により、収益はしだいに減少していった。
[森田 悌]
受領は、古代では国司の別称で、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官があったが、中世には実を伴わない官名として地下人(じげびと)の名誉称号となり、職人や芸能人などの表彰に利用されるようになった。近世に入るとその対象も多種多様にわたったが、なかでは刀鍛冶(かたなかじ)、菓子匠などの職人、浄瑠璃太夫(じょうるりたゆう)・人形操師(あやつりし)などの芸能人で受領する者が多く、のちには主として浄瑠璃関係者に与えられ、官名はもっぱら掾に固定する。大掾・掾・少掾の三階級があり、明治以降は宮家から口宣(くぜん)を受けて掾号を名のった。第二次世界大戦後では、義太夫節(ぎだゆうぶし)の豊竹古靭(とよたけこうつぼ)大夫が1947年(昭和22)に山城少掾(やましろのしょうじょう)を、人形遣いの吉田文五郎(ぶんごろう)が56年に難波掾(なんばのじょう)を受領している。
[茂手木潔子]
『吉村茂樹著『国司制度崩壊に関する研究』(1957・東京大学出版会)』▽『森田悌著『受領』(1978・教育社)』
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国司制度のうえで,前任者から任国の施設・財産などの管理責任をうけついだ国司官人。職務の引継ぎ手続きで前任者から新任者へ渡すことを分付(ぶんぷ)といい,新任者が前任者からうけることを受領ということから派生した名称。赴任した国司四等官の最高者がなり,通常は守(かみ)あるいは介(すけ)をさす。平安前期から受領の権限が拡大されて受領以外の任用国司の地位が低下し,結果的に受領の責務の下で国衙(こくが)機構によって地方行政が運営されていく体制が確立した。任国内の支配は受領に大きくゆだねられ,郎党(ろうとう)を動員するなどして徴税を強化し,摂関期には受領の中央政府に納入する税物が国家財政に重要な位置を占めた。また任期中に富の蓄積を行う者も多くなり,その財力が内廷や貴族の家政の運営にも利用された。
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…律令制下において,国司四等官はそれぞれ国務に関する責任を分掌していたが,9世紀に入るとその体制が崩れ,実際に赴任した国司の内の最上席の者に国衙の責任が集中していく。そして10世紀初頭には受領は,徴税はもとより,国衙の全資財の管理責任を負い,国衙の裁判権や雑色人の任命権をも掌握し,国務を一手にになうようになる。受領以外の国司を任用国司と称したが,受領への権限集中に伴って,彼らは国務から疎外されていった。…
…皇后宮の例は,近衛天皇の母后藤原得子の分国越前を初見とするが,以後鎌倉時代にかけて,中宮,東宮,斎宮,斎院などの分国が出現した。 院分国は,はじめ個別的,特例的にあてがわれたが,しだいに慣例化するに伴い,受領(ずりよう)(原則として国守)任命の手続のなかに組み込まれて制度化し,急速に発展した。《江家次第》によれば,受領の新任は,外記や史らの官人の巡任(年労等により定められた順序による任命)および別功によるほか,院の推挙によるものがあり,これを院分受領といい,その任国を院分国といった。…
…その結果,国司とくに国守は,あらゆる手段を講じて国内から徴収した財物のうち,規定の数量を国庫と中央に納めれば,残余はすべて私財とすることができる,いわば徴税請負人的な存在となり,国守の地位は制度上の給与以外に莫大な収入が期待できるものとなった。10世紀ころから遥任国守に対して,任地にあって吏務についての責任を負っている国守または権守,介などを受領(ずりよう)と呼ぶことがしきりに行われるようになり,受領の権限がひとり強大となって,それ以下の任用国司との地位の懸隔がしだいに大きくなったが,この受領の地位をめぐってしきりに競望が行われ,またその重任(ちようにん),成功(じようごう)を目ざして激しい運動が展開されるようになったのは,まったくその莫大な収入への期待によるものであった。また国司の地位がやはり10世紀ころから盛行するようになった年官(ねんかん)の主たる対象となり,あるいは院宮分国や知行国のごとき制度が行われるようになったのも,やはり国司の地位がきわめて大きな収入源とみなされるようになったためである。…
…そもそもこうした在庁官人が恒常的に地方行政を担う背景には次のような事情が伏在した。すなわち平安中期以降,国司制度の変遷とあいまって受領(ずりよう)が国守と同義語として用いられるに至った。これは従前の守(かみ),介(すけ),掾(じよう),目(さかん)という四等官制がくずれ,守と介ないし掾以下の任用国司との懸隔が大きくなり,受領国司による権力集中が行われた結果であった。…
…広義には国司庁宣,大府宣,伊勢大神宮司庁宣など,差出書を〈庁宣〉と書き出す文書の総称であるが,厳密には国司庁宣のみを指す。11世紀から14世紀まで行われた国務文書の一つで,受領(ずりよう)の発する下文様文書。律令政治の地方行政制度である国司が行う政治・行政行為を国務というが,10世紀以降国務は従来の守・介・掾・目の四等官国司の連帯責任制から官長(守または介)の単独請負制へと変化する。…
※「受領」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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