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宇治加賀掾 うじかがのじょう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

宇治加賀掾
うじかがのじょう

[生]寛永12(1635)
[没]正徳1(1711)
古浄瑠璃の太夫。本姓徳田氏。宇治賀 (のちに嘉) 太夫と名のり,延宝5 (1677) 年加賀掾宇治好澄を受領。京都を本拠として活躍。優美な芸風で,謡曲を範とすることにより浄瑠璃の芸質と評価を高めた。井上播磨掾とともに,古浄瑠璃の集大成者として知られ,近松門左衛門の初期の戯曲を数多く上演,後輩竹本義太夫による義太夫節成立の基盤をつくった。また,井原西鶴作の浄瑠璃『暦』『凱陣八島』を初演したり,段物集『小竹集』編集に協力を得るなど,西鶴との関係も深かった。著書はほかに,段物集『竹子集』など。

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デジタル大辞泉の解説

うじ‐かがのじょう〔うぢ‐〕【宇治加賀掾】

[1635~1711]江戸前期の古浄瑠璃最後の名人。紀伊の人。前名、宇治嘉太夫(かだゆう)。京都を中心に活躍。古浄瑠璃と義太夫節橋渡しの役割を果たした。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

宇治加賀掾 うじ-かがのじょう

1635-1711 江戸時代前期の浄瑠璃(じょうるり)太夫。
寛永12年生まれ。嘉太夫(かだゆう)節をおこし,延宝3年京都四条河原に伊勢島宮内(いせじま-くない)の名代(なだい)で操りの一座を旗あげして人気を博す。5年受領して加賀掾宇治好澄を名のる。はやくから近松門左衛門の作品をかたり,大坂で竹本義太夫とも競演した。宝永8年1月21日死去。77歳。紀伊(きい)和歌山出身。姓は徳田。前名は宇治嘉太夫(初代)。
【格言など】浄るりに師匠なし。只謡を親と心得べし(「竹子集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

宇治加賀掾

没年:正徳1.1.21(1711.3.9)
生年:寛永12(1635)
江戸前期,上方の浄瑠璃の名太夫。本名徳田太郎左衛門。号竹翁。はじめ宇治賀(嘉,加)太夫と名乗り,43歳で受領して加賀掾宇治好澄と名乗る。和歌山宇治に生まれ家は紙商を営む。17歳で芸道入りを志し,謡曲他の音曲を修業したが,当初の能楽師の道を諦め,浄瑠璃界に転じた。播磨節を語り,伊勢島宮内の節を取り入れ,次第に一流を形成してゆく。伊勢中の地蔵の芝居に初出演し,41歳京四条河原で宇治座の旗上げをし成功を収める。山本土佐掾と終始拮抗して芸を競う。43歳「西行物語」に天王寺五郎兵衛こと,のちの竹本義太夫(筑後掾)をワキ太夫に抱えるが,義太夫は翌年離反独立し生涯の好敵手となる。早くから近松門左衛門を作者としていたが名前を示さず,49歳で上演の「世継曾我」が近松確定第1作となり,好評を得る。以来京都の浄瑠璃界に君臨し,大坂にも出演してその節を流行らせ,京の四条縄手の芝居主を兼ねるまでの興行的手腕をもみせた。その芸風は「節くばり細やかに弱々たよたよとして」と評されるように繊細で,古典的な題材などを語るのを好み,謡曲を語り物中に多く取り入れ,京の観客を魅了した。音曲面のみでなく,舞台演出面でも新機軸を次々と考案し,歌舞伎との提携にも積極的で,浄瑠璃界に新風をもたらした功績は大きい。近松,義太夫の活躍は彼の存在を抜きにしては語れない。<参考文献>『古浄瑠璃正本集/加賀掾編』全5巻,信多純一「宇治加賀掾年譜」(横山重編『加賀掾段物集』)

(信多純一)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

うじかがのじょう【宇治加賀掾】

1635‐1711(寛永12‐正徳1)
近世前期の浄瑠璃太夫。和歌山宇治の出身。謡曲を始めとして狂言,平曲,舞曲,小歌などの諸音曲を学び,それらの長所を意欲的に摂取した嘉太夫(かだゆう)節(加賀節)を創始する。1675年(延宝3)京都に一座を興し,嘉太夫(当初は賀太夫)を名のり,77年には加賀掾を受領,85年(貞享2)大坂での竹本座との競演には敗れたが,以後も京都を本拠に上方浄瑠璃界の第一人者としての名声を保ち続けた。その曲風は播磨節(井上播磨掾)に独自の繊細巧緻な語り口を加味した優艶流麗なものといわれるが,そのような音楽的洗練に加えて,詞章・題材の面でも文芸性を高め,また,歌舞伎の傾城事(けいせいごと)などをも大胆に取り入れて明るい当代性を獲得するなど,浄瑠璃を上品で深みのある芸能へと発展させる上で大きな功績を残している。

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大辞林 第三版の解説

うじかがのじょう【宇治加賀掾】

1635~1711) 上方かみがた古浄瑠璃最後の太夫。嘉太夫かだゆう節の流祖。紀伊国の人。前名は宇治嘉太夫。謡曲・平曲などから曲節や題材を摂取して一派を開いた。近松門左衛門の作品を脚色して上演。のち、初世竹本義太夫と競演して敗れたが、義太夫節に対する影響は大きい。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

宇治加賀掾
うじかがのじょう
(1635―1711)

江戸中期の古浄瑠璃(こじょうるり)の太夫(たゆう)。前名宇治嘉太夫(かだゆう)。1677年(延宝5)加賀掾宇治好澄(よしずみ)を受領(ずりょう)。41歳のとき和歌山から京都へ上り、四条河原で興行を始める。井上播磨掾(はりまのじょう)の曲節に謡曲や流行唄(はやりうた)を加え、繊細で多彩な節を考案して京の人気を博した。85年(貞享2)に大坂へ下り、竹本義太夫(ぎだゆう)と競演。また近松門左衛門の作品も数多く語っている。芸論や節事(ふしごと)を集めた『竹子集(たけのこしゅう)』『大竹集(おおたけしゅう)』など遺作も多い。墓碑は京都市左京区新車屋通仁王門西入ル頂妙寺善性院にある。[倉田喜弘]
『横山重編『加賀掾段物集』(古典文庫)』

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世界大百科事典内の宇治加賀掾の言及

【嘉太夫節】より

…1675年(延宝3)京都に一座を興した宇治嘉太夫が始めた。嘉太夫は77年受領して宇治加賀掾となったので加賀節ともいわれた。彼の語り口は,大坂の井上播磨掾(はりまのじよう)の播磨節をやわらげ,それに謡曲,平曲,幸若(こうわか),流行の小歌などを取り入れて,曲節をこまやかにした。…

【正本】より

…音曲上の節付よりも筋を読ませることが主眼であったが,延宝期(1673‐81)には挿絵がなく,太字で節付の入ったものが刊行されるようになった。《今昔操(いまむかしあやつり)年代記》が〈あまつさへけいこ本八行を,四条小橋つぼやといへるに板行させ,浄るり本に謡のごとくフシ章をさしはじめしは此太夫ぞかし〉と記すのは,宇治加賀掾が1679年(延宝7)に出した《牛若千人切》を指す。1710年(宝永7)には竹本筑後掾(竹本義太夫)正本《吉野都女楠(よしののみやこおんなくすのき)》の七行本が刊行された。…

【浄瑠璃】より

…その門下に松本治太夫がある。京で最も注目すべきは宇治嘉太夫(宇治加賀掾)で,天王寺五郎兵衛(後の義太夫)をワキに抱え,細かい節回し,情趣的余情をもつ新鮮な芸風を示した。歌舞伎の廓場を移入し,稽古用に八行大字丸本を刊行,語り物には近松作品も多くみられる。…

【人形浄瑠璃】より

…大坂で《頼光跡目論(あとめろん)》など金平物を得意とした井上播磨掾の門下から,竹本義太夫が生まれたのも故なしとしない。しかし中世色の濃い説経風の古浄瑠璃,角(かく)太夫節なども民衆の根強い支持を保ち,他方,古典的な優雅な題材を扱いつつ現代風俗をも摂取して浄瑠璃の地位を高めた宇治加賀掾は,近松初期の作品《世継曾我》(1683∥天和3)などを演じ,古浄瑠璃と義太夫節の橋渡し的存在となった。
[近松・義太夫時代――1680年代~1720年代]
 宇治加賀掾のワキをつとめていた竹本義太夫(筑後掾)は1684年(貞享1)大坂道頓堀,現在の浪花座の位置に竹本座を創立,歌舞伎と肩を並べる現代劇としての義太夫節を創始した。…

※「宇治加賀掾」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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