山本 森之助
ヤマモト モリノスケ
明治〜昭和期の洋画家
- 生年
- 明治10(1877)年4月2日
- 没年
- 昭和3(1928)年12月19日
- 出生地
- 長崎県長崎市新橋町
- 学歴〔年〕
- 東京美術学校(現・東京芸術大学)西洋画科選科〔明治32年〕卒
- 経歴
- 明治27年大阪に出て山内愚仙に入門、28年上京し明治美術学校研究所に通う。29年黒田清輝、久米桂一郎の天真道場に入門、同年創設の東京美校洋画科選科に入り、32年卒業。同年白馬会準会員、35年同会員となる。また33〜36年沖縄県立中学図画教師として赴任し、38年「暮れゆく島」で白馬会賞を受賞。40年東京府勧業博覧会で1等賞。文展では40年第1回展で3等賞、41年第2回で3等賞、42年第3回で2等賞と連続受賞するなど初期文展に活躍。第4回から7回まで文展審査員、45年中沢弘光らと光風会を創立、以後同展と文展、帝展に出品を続け、第5回から9回まで帝展審査員を務めた。大正11年渡欧し、13年帰国。印象主義による風景画を得意とした。代表作に「曲浦」「濁らぬ水」「セーヌの曳き舟」など。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
山本森之助
没年:昭和3.12.19(1928)
生年:明治10.4.2(1877)
明治大正期の洋画家。長崎の料亭一力2代目当主の長男として生まれる。明治27(1894)年大阪で山内愚仙の下で洋画を学び翌年上京,天真道場などに通い東京美術学校(東京芸大)西洋画科選科に入学,32年卒業した。白馬会展に出品し,35年白馬会会員。33年から3年間図画教師として沖縄に赴任する。38年第10回白馬会展に出品した「暮れゆく島」で白馬会賞を受賞。40年の第1回文展では代表作となった「曲浦」(東京国立近代美術館蔵)で3等賞を,翌年の第2回展でも「濁らぬ水」で2等賞を受賞した。45年には,中沢弘光らと光風会を結成し,のち文展,帝展の審査員も務めた。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
山本森之助
やまもともりのすけ
(1877―1928)
洋画家。長崎市生まれ。大阪に出て山内愚僊(やまのうちぐせん)に洋画を学び、1896年(明治29)黒田清輝(せいき)の天真道場に入り、99年東京美術学校西洋画科を卒業。白馬(はくば)会会員。1907年東京府勧業博覧会で一等賞を受け、初期文展で受賞を重ね、審査員となる。光風会の創立に参加。22~24年(大正11~13)渡欧。代表作は『曲浦』『セーヌの曳舟(ひきふね)』など。
[小倉忠夫]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
山本森之助 やまもと-もりのすけ
1877-1928 明治-大正時代の洋画家。
明治10年4月2日生まれ。山内愚仙(ぐせん)に師事し,上京して黒田清輝らの天真道場,東京美術学校(現東京芸大)にまなぶ。白馬会,文展,帝展で入賞をかさねて文展審査員となる。明治45年中沢弘光らと光風会を創立した。昭和3年12月19日死去。52歳。長崎県出身。作品に「曲浦」「丘」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
山本 森之助 (やまもと もりのすけ)
生年月日:1877年4月2日
明治時代-昭和時代の洋画家
1928年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の山本森之助の言及
【光風会】より
…美術団体。黒田清輝を中心に結ばれた外光派の洋画団体[白馬会]が1911年(明治44)に解散すると,その有力メンバーであった中沢弘光,山本森之助,三宅克己,杉浦非水,小林鐘吉,跡見泰,岡野栄を発起人として翌12年3月に結成され,その年の6月,上野竹之台で第1回展覧会を開催した。当時,印象派以後の新しい美術思潮の刺激を受け,個性的な表現を唱える若い層が増大していたが,この会に拠(よ)る画家たちは黒田の穏健な画風を引き継ぎ,官展系の団体として結束を崩さなかった。…
※「山本森之助」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」