洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。薩摩藩士黒田清兼の長子として鹿児島に生まれ,伯父黒田清綱(1830-1917)の養子となり,1872年(明治5)上京。清綱は元老院議官,歌人としても知られた。84年法律勉強のために渡仏したが,87年法律学習を放棄して絵画に専念,R.コランに師事し,アカデミー・コラロッシで学んだ。滞仏末期の90-92年,パリ郊外のグレー村に滞在し,《読書》《婦人像(厨房)》などを制作,93年パリの春のサロンに《朝妝(ちようしよう)》(焼失)を発表し帰国した。96年,滞仏時代からの僚友久米桂一郎(1866-1934)や周辺に参集した若い画家たちとともに白馬会を結成,同年東京美術学校西洋画科新設のときその指導を委嘱され,98年教授に就任した。コランに学んだ画風はフランス・アカデミスムと印象派的表現を折衷したもので外光派と呼ばれ,既存の明治美術会系の硬化した写実主義的作風と対立し,旧派に対して新派,陰影部の描写法から脂(やに)派に対して紫派とも呼ばれた。その間に《朝妝》が裸体画問題で社会的事件ともなったが,帰国後の作品では《舞妓》(重文)や《昔語り下画》《湖畔》などを発表,白馬会の若い画家たちに影響を与え,和田英作《渡頭の夕暮》など明治期洋画の秀作を生むことになった。外光派の身近な主題,印象派的な明るい色調の作風は,日清戦争後の国内社会の変化,文芸思潮,自然観の進展によく適合して一般にうけいれられ,白馬会が洋画界の主流を形づくるとともに,黒田はその中心的存在として重きをなしていった。1900年パリ万国博に《智・感・情》を出品,再渡欧し,イタリアを旅行して帰国した。07年文部省美術展覧会(文展)開設に尽力し,以後洋画部の中核となって活躍,10年帝室技芸員に任ぜられた。17年養父没後に爵位を継ぎ,20年には貴族院議員に当選,子爵議員研究会に属して政治家としても活躍した。22年森鷗外死去のあと帝国美術院院長に就任,その間には日仏交換日本美術展,現代フランス美術展などの開催に尽力したが,23年狭心症を発し,24年フランス現代美術展の裸体作品出品の処置に奔走し,喘息を併発して死去した。
黒田は,前半期には西欧絵画の正統を紹介,移植しようと試みたが,彼自身の資質と後半期の社会的な地位からくる繁忙さから,それは十分には達成されなかった。しかし外光派は,黒田につづくフランス留学のコラン系の画家たちにうけつがれ,日本洋画の官学派を形成していった。外光派の移植による感覚の解放,表現の刷新は日本画へも及び,文芸界全般へと影響を及ぼした功績は大きい。
執筆者:陰里 鉄郎
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洋画家。明治中期初めて日本に印象派系絵画を移入し、かつ美術教育兼行政家として活躍した。慶応(けいおう)2年6月29日鹿児島市に生まれる。幼名新太郎。伯父清綱の養嗣子(ようしし)となり、1872年(明治5)上京、のち1884年法律研究のためフランスに留学する。アカデミー・コラロッシのラファエル・コラン教室に入り、画学をも修業するが、やがて井上哲次郎にさとされ、法律学校を退いて画家の道に専念する。ベルギー、オランダへたびたび旅行。諸サロンに出品。1893年春、ソシエテ・ナシオナル・デ・ボザールに『朝妝(ちょうしょう)』を出品し、夏帰国する。翌年久米桂一郎(くめけいいちろう)と天真道場を設けて後進の指導にあたるほか、日清(にっしん)戦争に従軍。1896年には東京美術学校に新設された西洋画科の主任となり、本格的なフランス式の美術教育を開始するとともに、同志たちと白馬会(はくばかい)を創立し、洋画研究所をも設立した。こうして黒田は日本に初めて明るい印象派系の絵画を移入し、洋画界の近代化を大いに推進した。また1900~01年(明治33~34)ふたたび渡仏し、パリ万国博覧会に出品した『智(ち)・感・情』は銀賞を受けた。内外の博覧会審査官、文展審査員を務め、また洋画家として最初の帝室技芸員(1910)に任命された。1913年(大正2)創設の国民美術協会会頭、1917年養父の死去に伴って子爵を継ぎ、1920年には貴族院議員に当選するなど、概して晩年は美術行政の分野で大いに活躍した。さらに1922年には森鴎外(おうがい)の後を受けて第2代帝国美術院院長に就任、フランス政府からレジオン・ドヌール勲章ほかを受けた。大正13年7月15日没。その遺志により美術研究所(現東京文化財研究所美術部)が創設された。また同研究所内に黒田記念近代現代美術研究室が設けられている。代表作『読書』、『舞妓(まいこ)』(重要文化財)、『湖畔』(重要文化財)、『木苺(きいちご)』などがある。
[小倉忠夫]
『隈元謙次郎著『黒田清輝』(1966・日本経済新聞社)』▽『黒田清輝著『絵画の将来』(1983・中央公論美術出版)』▽『『新潮日本美術文庫27 黒田清輝』(1997・新潮社)』
(三輪英夫)
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明治・大正期の洋画家 帝国美術院院長;東京美術学校教授;貴院議員。
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1866.6.29~1924.7.15
明治・大正期の洋画家。薩摩国生れ。黒田清兼の子。伯父の黒田清綱の養子となり上京。法律を学ぶため1884年(明治17)パリに留学したが,画家に転向してラファエル・コランに師事。93年に帰国し,翌年久米桂一郎とともに天真道場を設け,96年には白馬会を結成。「読書」「湖畔」(重文)などの外光派風作品は画壇に大きな影響を与えた。東京美術学校西洋画科の教授となり,以来長く美術教育に貢献し,文展の創設にも尽力。帝室技芸員,国民美術協会会頭,帝国美術院会員のち同院長。晩年には貴族院議員となった。業績を記念した黒田記念館(東京国立博物館管理)が東博に隣接してある。
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…洋画家。本名は〈きよてる〉と読む。薩摩藩士黒田清兼の長子として鹿児島に生まれ,伯父黒田清綱(1830‐1917)の養子となり,1872年(明治5)上京。清綱は元老院議官,歌人としても知られた。84年法律勉強のために渡仏したが,87年法律学習を放棄して絵画に専念,R.コランに師事し,アカデミー・コラロッシで学んだ。滞仏末期の90‐92年,パリ郊外のグレー村に滞在し,《読書》《婦人像(厨房)》などを制作,93年パリの春のサロンに《朝妝(ちようしよう)》(焼失)を発表し帰国した。…
…外国においてはヨーロッパの内外を問わず,広く印象主義を吸収する動きがあり,それぞれの国の美術の特質に従ってさまざまに翻訳された。後期印象派新印象主義【馬渕 明子】
[印象主義と日本の近代美術]
日本における印象主義の導入は,1893年(明治26),黒田清輝,久米桂一郎(1866‐1934)がフランスから帰国して画壇に新風をもたらしたことに始まる。黒田の渡仏は1884年,久米は86年で,後者の渡仏年に印象派グループの最後の展覧会が開かれた。…
…これは,日本美術,洋風美術それぞれの新旧諸流派が対立し反目し合う美術界に共通の場を与え,抗争を収拾して美術の振興を図ることを目的として設けられたもので,その年の6月,勅令をもって官制が発布され,10月から11月にかけて上野公園で第1回展が開催された。東京帝国大学教授大塚保治の建議,正木直彦や黒田清輝らの運動が開設をうながしたという。時の首相は西園寺公望,文相は牧野伸顕であった。…
…このなかでは浅井忠がフォンタネージの画風をよく生かして,《春畝》(1889)や《収穫》(1890)のように田園風物詩的なすぐれた作品を生んで傑出している。またミュンヘンに留学してドイツ歴史画派のガブリエル・マックスに師事した原田直次郎は,確かな表現力によって次代を担うホープとして期待されたが,92年脊髄病に倒れて再び立たず(1899年37歳で夭折),彼に代わるように,93年黒田清輝がフランスから帰国する。 ブーグロー,カバネルのアカデミストにつき,バスティアン・ルパージュの外光描写をとり入れた折衷様式の画家R.コランが黒田の師であった。…
…1880年代のパリ画壇で認められていた唯一の日本人画家といえるが,87年の帰国に際して作品を積み込んだ巡洋艦〈畝傍〉が沈没して滞欧時代の作品は消失。黒田清輝の画才を高く評価して,法律学から画家へ転身させる契機をもたらしたのは芳翠である。そうした関係で帰国後に開設した画塾生巧館を黒田にゆずり,みずからも白馬会に参加した。…
※「黒田清輝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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